使われていない男子寮の一室に、魔法使いは並人を連行した。赤いヒーローとジャージの超能力者とは男子寮に入る前に別れている。その前にひそひそと三名は話していたが、内容はまったく聞こえなかった。
魔法使いは慣れた手つきで照明のスイッチを押すと、ダイニングにある椅子に腰掛けた。並人がイメージする学生寮よりも広く綺麗だ。家電は一通り揃っているし、新築で掃除も行き届いているのか埃ひとつない。魔法使いはテーブルの上にちょこんと頭を出して、小さな手でテーブルを叩く。座れ、と要求しているようだ。
無言で並人は従う。その様子を確かめてから、魔法使いはローブの内側をこそこそして缶コーヒーをふたつ取り出した。
「無糖と微糖、どっちがいい?」
毒ではないというアピールではないだろう。顔立ちに比べ大人びた、落ち着き払った表情で、並人の表情を伺っている。
「無糖で。ありがとう」
「たはっ、紳士ね」
内面を見透かされ、並人は顔に熱を感じた。小さな手で缶をひとつ並人に滑らせてから自分の缶を開けた。静かな部屋ではその音は思いのほかよく響いた。並人も同じ音を発し、それから一口含む。
苦い。微糖の方がよかったが、さすがに小さな女の子に無糖は渡せない。ただ、温かい缶のぬくもりが、このわずか一時間の出来事から彼の思考を現実に引き戻してくれた。
「あたしは日向かぐや。何者なのかは示したつもりだけど、どう?」
「……魔法使い?」
「そ。服装もそれっぽくしてるし、わかってくれて嬉しいわ」
花のようにかぐやは笑う。その先は何も言わず、彼女はちびりと缶に口つけた。
「僕は並人。七曲並人。明日で、高校生になる。妹を探しに、ここへ来た。他には、何もわからない」
戦う意思など今の並人にはなかった。超能力があったときは全能感に酔っていた。自らの日常、その象徴だった妹は消え失せ、何故か発現した異能を用い、遠い異国の地で迷子の気分だ。妹くらいの年頃の娘に泣き言を漏らす体たらくである。
「妹さん? 妹さんも超能力を使うの?」
首を振る。何から話せばいいか、並人はしばし迷い、話すことなどすぐに決まった。目の前で妹が消え失せ、家にはその痕跡がなくなり、頭痛がしたと思ったら超能力が使えるようになっていて、何故かこの学校にたどり着いた。
はっきり言おう。警察に捕まれば間違いなく尿検査だ。だが、残念なことに彼の認識する限りおいては、事実しか口にしていない。
「消失――それも痕跡ごと、か。いいわ。それは明日までに調べておく。代わりってのも変だけど、君に備わっている異能――
「裁葬幕? なんだ、それ?」
並人は首をかしいだ。頭痛がして、突然超能力が一時的に使える能力と、デッドエンドという言葉あまりにもかみ合わない。いや、と頭をひねる。
「つまり、突然身の丈に合わない力を手に入れて、愚かな選択肢でデッドエンドってこと? そんな酷い異能ある?」
「袋小路じゃなくて死亡エンドってとらえたわけか。嫌いじゃないわ」
冗談ではなく並人は本心から思ったのだが。
「……ん。マジで知らないみたいね。じゃあ、私から教えるわ。裁葬幕。世界を害する存在――通称、
「憑依か。他の部分はまったくわからないけど、憑依って感覚は確かに似ているのかも。超能力に突然目覚めたってわけじゃなくて、当たり前に使えるのを思い出したって感じだ。そして、あの時は肝も据わってたと思う」
「あたしたち三人に対して、戦う気満々だったもんね」
顔を覆い隠したいくらいに並人は恥ずかしかった。赤くなっているのは自覚している。なんで指を鳴らして威嚇までしたのか、今の並人にはさっぱりわからない。それなのに、あれを意識的にした記憶はばっちり残っている。
「戦意も高揚させられてたのかな。ワールドレイド? 世界にとってのレイドボスみたいなもんか。いや、ダメだろ。レイドボスをソロ討伐させようとすんな」
「特効装備確定ってことでそれはひとつ我慢してもらえると」
「憑依ってのが手ぬるいよな。完全に僕を乗っ取って欲しい。自動的に僕はなりたい」
「その方が何かと都合がいいね。口笛吹ける?」
並人は少し会話が楽しくなっていた。妹がどのような趣味に目覚めても模範たれるように、彼は多趣味だった。その分、とことんまで突き詰めたものはないが、雑多な知識を混ぜて話す癖があり、微妙に妹にはウケが悪い。
妹曰く、ボケてもないのにツッコまれても。そのときの冷たい眼差しでさえ、今の並人には懐かしく感じる。
「……で、ジャージの子が世界毒だったってわけ?」
「そう。けど射程で負けてて、僕の方が強いってのにはいまいち疑問が残る」
すっ、と一瞬だけ、かぐやの眼差しが悲しげに見えた。だが、彼女はすぐに消し去ったので、確証はなかった。
「とりあえず、並人くんの現状認識はわかったわ。ちょこっとだけど性格も。だからこっちも最大限協力してあげたいんだけど、妹さんについては今のところ渡せる情報がない。痕跡がないのが、並人くんの家だけなのか、それとも広範囲に及んでいるのか。そのあたりから調べてみる」
「……誘拐されたって可能性はないだろうか。神菜はとてもかわいいから」
「シスコンか。目の前で誘拐さすな。そりゃ略取じゃろうがいっってツッコんだ方がいい? それはないから安心して。目の前でさらう意味がない。まあ、心配よね。よし、推測段階だけど、この事件にはジャージの――ええい、もう。シオンちゃんが絡んでる。十中八九ね」
「ジャージの……シオン。あの、世界毒の。あの子が日本にまで来てたってわけ?」
「相手の能力を把握しきれはしないのか。そりゃますます裁葬幕ってキツい異能ね。いい、並人くん。シオンちゃんの最大攻撃範囲は地球全土。家から妹ちゃんをさらうのも痕跡を消すのも、あの子ならここからお茶の子さいさいよ」
地球全土? と並人は目を丸くした。それでは不在証明(アリバイ)にはなんの価値もなくなる。人を容易に押し潰せる念動力を持ち、どこにでも空間転移できる。それは――確かに危険な存在だ。
「だからといって妹ちゃんの消失と、君の裁葬幕の発現が線で結べないってのもまた事実。シオンちゃんはいくらなんでも人を消したり、連れ去ったりはしない。力ではなく人格面で信頼できるわね。私が保証する」
「妹の危機に僕の封じられた力が? 僕は異能なんて私的には妹のためじゃなきゃ使わない」
「並人くんの私的って九割妹ちゃんじゃない、見てる限り」
「残念だったな、十割だ」
並人が努めて笑顔で言うと、かぐやが慈しむような眼差しで彼を撫でた。それから椅子を降りると、しっかりとした足取りで並人に近寄ってくる。小さな手が並人の頬に触れた。その手が伝う涙を拭う。
「怖いよね。ごめんね。妹ちゃんのこと、安心させてあげたいんだけどさ。シオンちゃんは、悪い子じゃないけど危険な存在なの。何せ、世界毒だと正式に判定されたくらいだもの」
喪失感に打ちのめされ、震えそうになる唇を、なんとか並人はこらえることができた。かぐやが涙を拭ってくれたおかげだと思えた。
そして、遅れて気づく。かぐやはシオンが世界毒だと確証を持っていなかったのだ。
「わかった? それも重ねてごめん。あたしたちが知ってるなら隠す意味ないもんね。そう。あたしたちはシオンちゃんが世界毒だと――いいえ、誰が世界毒かを判定する術を持たない。そして、裁葬幕という異能については、シオンちゃんがさっき口を滑らせた言葉。今日まであたしたちはそんな異能があることさえ知らなかった」
真っ白になりかけた思考を無理矢理動かし、かぐやとの会話をつなぎ合わせていく。
「だとすると、シオンって子が」
最後のピースがカチリとハマる。全能感をもっていた超能力者のときの意識だ。超能力者には触感能力がある。そして、それは。
「僕の記憶を、奪った?」
「その可能性が高い。……今日はここで泊まっていって。明日の入学式は諦めて。君はもう、日常には帰れない」
かぐやは最後に背伸びをして、並人の額に手を当てた。それから小さく何事かを囁く。
「はい。パジャマ持ってきてあげたから、これに着替えてベッドで寝ちゃって。大丈夫、すぐに眠くなるからさ」
ローブからビニールにくるまれたパジャマを取り出す。最初から、この部屋に並人が泊まる――いや、これからはここで暮らすことを想定していたらしい。
「あ、待ってくれ。最後に――ここは、一体なんなんだ?」
「そっか、失礼。そんな大事なことを話し忘れちゃってた。あたしったらうっかり屋さん」
ちょっと時々言葉が古いのは置いておく。多分、そういう場所だ。並人には確信があった。
「対世界毒組織兼異能者隔離施設。揺籃学園。奇遇ってか運命的っていうより、むしろこれは完全に仕組まれてるわね。――明日が記念すべき開校日。あたしたちの戦いはこれから始まる」
その時だけは、かぐやの瞳は戦士としての色を帯びていた。