ナイフを手に取ったものの、ライラは次にどう動くべきかを迷っていた。
ライラが何もできないでいると、こちらの気持ちを見透かしているかのように少女が優しく声をかけてくる。
「……あのね、ここはお互いに何も見なかったことにするのが良いと思うなあ」
少女はやれやれと首を横に振り、敵意はないのだと主張するように両手を大きく開いた。
これだけ大胆に隙を見せられてしまうと、かえって攻撃ができない。少女はそういうことを見抜いているのだろう。
「僕らを黙って行かせてくれれば、この二人はこのまま返すから。……ねえ?」
少女は無邪気な笑顔でそう言いながら、アヤを守るように抱きしめているエリクを足蹴にする。
「てめえ!」
エリクのうめき声が聞こえて、イルシアが激昂する。彼が再び少女に襲い掛かろうとするので、ライラは慌てて肩を掴んで止めた。
「気持ちはわかるわ! だけど今は我慢しましょう」
「はあ? どうして邪魔すんだよ‼」
「誰も傷付かずにこの場を収めるには、相手の言うことを聞くのが一番よ。わかるでしょう?」
「ふざけんなよ。こいつらをここで野放しにしたら他の誰かが傷つくだけだろうが!」
「──っ、それは……」
ライラはイルシアの言い分にすぐに反論できなかった。
ライラが言い返す言葉を探している一瞬の隙に、イルシアは肩に置かれた手を振り払って少女に向かって突っ込んでいった。
「あはははは! 僕らを放っておいてくれれば君は無事にお家へ帰れるのにねえ」
少女はイルシアの攻撃をあっさりと正面から受け止めた。槍の先を鋭い爪でつまんで余裕たっぷりに笑っている。
「この姿をしていると大抵の人間は優しくしてくれるのになあ。こんな子供を襲うなんて、君ってばもしかして普通じゃないね?」
「てめえにだけは言われたくねえよ! 子供のふりをしやがって気持ち悪い奴だな」
「ふふふふふ、酷いことを言うねえ。せっかく放っておいてあげようと思っていたけど、君は始末してしまったほうがいいのかなあ?」
少女の赤い瞳がイルシアを値踏みするような視線で見つめている。
少女は槍の先端をつまんだまま、イルシアの身体を上から下までじっくりと観察する。
「……イルシア、お願いだから下がって」
ライラは祈るようにイルシアに声をかける。しかし、彼は一歩も引かなかった。
「せっかく姿を現したんだ。こいつは俺がここで止める!」
イルシアがそう言うと、彼を観察し終えた少女がニヤリと笑った。
歯を見せて笑う少女の口元がきらりと光る。幼く可愛らしい容姿には似つかわしくない鋭い牙が姿を見せた。
次の瞬間、少女はイルシアの手にしている槍の柄をがっしりと掴んだ。少女の見た目からは想像もつかない物凄い力で、イルシアを槍ごと自分の方へと引き寄せる。
少女の行動が想定外だったのだろう。イルシアは咄嗟のことに反応できずに、身体のバランスを崩して前のめりになってしまった。
少女がイルシアの首に噛みつこうとしている。それに気が付いたライラは、手にしていたナイフを少女に向かって勢いよく投げつけた。
「……残念。せっかくだから帰る前にちょっとだけ味見しようと思ったのになあ」
少女は槍の柄を掴んでいた手を離すと、ライラの投げたナイフを軽々と受け止めた。
少女が槍を手放したので、イルシアは体勢を立て直すと、ようやくライラの元まで下がってきた。
「……悪い、助かった」
「いいのよ。無事ならそれで」
ライラとイルシアが言葉を交わしている様子を、少女は眉を寄せて不機嫌そうに見つめてくる。
少女はしばらく黙ってこちらを見ていたが、やがて手にしているライラのナイフに視線を落とした。
「……こんな物で僕の邪魔をするとか……。君は僕のことを馬鹿にしているのかなあ?」
少女がナイフを見つめながら低い声で囁いた。すると、周囲にただならぬ気配が漂いはじめる。
あたりに散らばっていた瘴気が少女の元に集まり、彼女はあっという間に黒い霧で包まれていく。
「あーあ、大人しく帰るつもりだったのになあ。なんだか苛々してきちゃったなあ」
少女がゆっくりと顔を上げる。
先ほどまでとは打って変わって、恐ろしい形相をした少女がライラを真っ直ぐに見つめてきた。