「おお、ライラじゃないか! 相変らず辛気臭い顔をしてどうしたい?」
声をかけてきたのは、ライラが王都からこの街まで乗ってきた馬車で、御者をしていた男だった。
日に焼けた黒い肌をした筋肉質な男で、名前はトゥールという。
ひと月近く馬車に乗っていたライラは、彼にすっかり顔を覚えられている。軽く世間話をする程度の間柄にはなっていた。
「まあ、びっくりしたわ。街に着いたら一目散に奥さまとお子さまのところに向かうのじゃなかったかしら?」
「そうしたいのは山々だが、まだ仕事が片付かなくてな。これから昼飯を食ったら事務処理を済ませてさっさと帰るさ」
大きく口を開けて白い歯を見せながら笑うトゥールの表情からは、家族に会えるという幸せが溢れ出ている。
ライラはその笑顔が眩しくて目を細めて笑った。
トゥールは家族をこの街に残し、遠距離馬車の御者として出稼ぎに出ていた。街に帰ってきたらすぐ家族に会いに行くのだと、道すがら常々口にしていた。
「そうね。長くお仕事に出ていらしたのだから、すぐには片付きませんわよね。ご家族はさぞ首を長くしてお待ちになっていらっしゃるでしょうね」
ライラがトゥールにそう言ったとき、彼の腹が大きな音をたてて鳴った。
空を見上げれば、真上に太陽が昇っている。
腹の虫の鳴き声を止めるには、ちょうど良い頃合いの時間帯だ。
「ごめんなさいね。お昼に行く途中でしたでしょうに、お引き止めしてしまったわ」
ライラはせっかく見知った顔に会ったので、装備品を揃えるのにおすすめの店でも聞いてみようかと思っていたが、トゥールの大きな腹の音を聞いてやめることにした。
ライラはトゥールに向かって丁寧に頭を下げると、彼に背中を向けてそのまま通りを進んでいこうとする。
「おいおい、せっかくこうしてまた会ったんだ。一緒に飯でもどうだ?」
トゥールは、がははと笑いながらライラを呼び止める。
ライラは背後のトゥールを振り返ると、困った顔をして見せた。
「はじめての街じゃ何かと不安だろう? どうせお前さんのことだから、この時間になっても昼飯を食うのを忘れているのだろうしなあ」
ライラはトゥールの呆れたような物言いに、すぐに反論をした。
「別に忘れているのではないわ。私は小食なの。お腹が空かないから食べないだけなのよ」
「腹が減らないなんて、そんな人間がいるわけねえよ。俺のおすすめの定食屋がこの近くにあるんだ」
トゥールはライラが重たそうに手にしているトランクケースをちらりと見ると、腕を組んでにやりと笑った。
「見たところまだ宿も決まっていないのだろ? それくらい相談にのってやるからついてこいよ」
馬車が街に辿り着いたのは明け方だ。
今は昼時なので、ライラがこの街に足を踏み入れてそれなりの時間が経っている。
だというのに、大きくて重量のあるトランクケースをライラは抱えたままなのだ。
その姿を見て、トゥールは思うところがあるらしい。
「……はーあ。やっぱりいろいろなお客さんを見ている方は良い目をお持ちですわね」
「俺じゃなくたってわかるさ。お前さんはあからさまに訳あり奥さまの空気がばっちり漂っているもんでね」
ライラは意地悪く笑っているトゥールを、ため息をついてから黙って見つめる。
ひと月の間、彼とは御者と客という立場で共に旅をした。
その中で彼に抱いた印象は、とにかく世話好きな男ということだ。
面倒見がよすぎて煩わしいと思うこともあったが、だからといって悪い印象はない。
ライラは少し考えたあと、上機嫌に笑うトゥールを信用して大人しくついて行くことにした。