その後――。
二次審査は無事に通過し、最終候補の十人に選ばれたリディは部屋を与えられることになった。最終的に順位が決定するまでの間ここで暮らすことになるのだ。しかし自分の邸よりもはるかに広々とした部屋は一人でいることを余計に意識し、寂しくなってきてしまう。
それから世話係のメイドがやってきて食堂に案内してくれた。夕食を済ませたあとも、メイドが湯あみをしてくれ寝る前の身支度まで調えてくれた。
「何かご用件がありましたら遠慮なくお呼びください」
「ええ。ありがとう」
「では、おやすみなさいませ」
「……おやすみなさい」
ベッドに腰を落とすと、窓から闇夜に浮かぶ月の姿が見えた。
ヴァレス侯爵の邸から離れて王宮で暮らすという普段とは異なる状況がそうさせるのか、なかなか高揚感が消えない。
煌々と輝き続ける夜空の月を眺めていると、不意にあの男のことが思い浮かんだ。
彼の勝気な眼差しが何故か忘れられなかった。彼は間者ということを否定も肯定もしなかった。どこからやってきた人なのだろうか。少なくとも彼の身なりからして下賤の身ではないことはたしかだ。いくら間者のように忍んでも彼には隠しきれない品格が漂っていたからだ。だとしたら何者なのだろう。どんどん気になってきてしまう。
そんな思考の連鎖を払うように、リディはかぶりを振った。
(キス泥棒のことなんて早く忘れなくちゃ。もう二度と会うことなんてないんだから……)
これはただの好奇心。そして彼にかき乱された分、リディは彼に偽名を伝えた。あとは王宮の警備が対応すればいいだけの話。リディにはもうなんら関係がない。自分にはやることがある。そちらに集中しなければ。
考えを整理しているうちに胸の下で騒がしくなっていた鼓動は少しずつ落ち着いていく。やがて疲労感と共にそのまま眠気に誘われていったのだった。
審査を通過した令嬢たちが王宮暮らしに慣れはじめる頃、春の祝祭がはじまった王宮内では、式典が執り行われたあとに舞踏会が開かれることになった。
四季の祝祭の際、王国内は七日間のお祭り期間に入る。王宮では賓客をもてなし、城下町では祝祭のパレードや催しもので賑やかになるのだ。そうして国中の民が四季の恵みに感謝してその喜びを分かち合うという大事な伝統行事だ。
いつもならリディは貴族の領主の娘として領民たちの様子を見回りながらお祭りを楽しんでいたところだったが、今年の春の祝祭は、花嫁候補として上がるためにリディは王宮にいる。
(しっかりしなくちゃ)
いよいよ舞踏会の幕開けだ。花嫁としての資質を見る選評会も兼ねているという話があったはず。心して臨まなければ。リディはよりいっそう緊張に身を包んだ。
ダンスのレッスンはしっかりとしてきたつもりだけれど、失敗しないとも限らない。王太子である二コラに華やかさを添えるように務めなくてはならない。
しかし王太子である二コラはすぐには姿を見せない。先に招いていた賓客をもてなすために貴族らは挨拶代わりに彼らと円舞曲を踊るというのが定例になっている。
最初の相手は自然と輪に入れば、決まってくる。
目の前に立った男性に驚き、リディは思わず息を呑んだ。
なぜなら、彼があの失礼な間者の男とそっくりの顔をしていたからだ。
「お初にお目にかかります。ご令嬢。我が名は、ジェイド・リスター・カイザック。オニキス王国より王の名代で貴国の祝祭に馳せ参じました」
「オニキス王国の……王太子殿下?」
リディは信じがたい気持ちで軍服に身を包む彼を見つめた。あの日、煤けたローブに身を包んだ彼とは同一人物には見えない。だが、彼のその双眸と精悍な顔立ちは記憶のものと一致する。そして胸に響くような艶のある低い声も、彼のものに違いなかった。
(まさか、敵情視察に来ていたのが、オニキス王国の王太子殿下だなんて……嘘でしょう?)
大陸の西南、時を司るクロノス神を崇拝する宗教国家、神聖マグタ教国を中心に右から時計回りに王立国家が幾つか存在する。ユークレース王国、ライナール王国、そしてオニキス王国の三ヵ国だ。三ヵ国に囲まれた神聖マグタ教国はそれぞれ色の異なる国家と不可侵条約を結んでおり、永年中立の立場にある。その一方、三ヵ国はそれぞれが牽制し合って均衡を保ち、大陸の和平を維持していた。
しかし近年はいつ戦争が起きてもおかしくはない緊迫した関係になっているのだとか。特に二国間ユークレースとオニキス間の危機の噂はこれまでに幾度となくあった。一触即発となりそうになったこともあったはずだ。
だが、具体的に表面化されることなく三竦みの状態が続いているという情勢のさなか。とうとう動き出すつもりで刺客を送り込んできたというのだろうか。戦争が起きてしまうのではないか。そんな不安に駆られたリディは背中に冷えたものが走った。
(でも、世継ぎの王太子にそんな危険な役目を与えるかしら? 捕まったら殺されないにしても国同士の問題は表面化されてしまうのに)
ユークレース王国が花嫁制度を設けているように、オニキス王国も同じように替えが利くように、妾妃の子である王子が他に沢山いるのだろうか。
国務に関わりのあった父がいるとはいえ、貴族の令嬢の一人でしかないリディに知れることは多くはない。ただ、かつて三国をいだく大地が飢饉におそわれた歴史から、四季の恵に感謝する祭日には国の領域を犯すような戦争はしかけてはならないという教訓が後世に伝えられている。
そのため、神聖マグタキ教国が三ヵ国と結んだ不可侵条約と同じように、三ヵ国間でも約定がいくつかあり、祝祭の日、生誕祭などの重要な行事に他国の領域に攻め入ってはならないという決まりが設けられている。それを破ることは禁忌。つまり今は客人として彼はここにいる。それには違いなかった。
動揺するリディをよそに彼――オニキス王国の王太子であるジェイドは微笑を浮べ、かしこまったように手を差し出した。
「私と一曲、踊っていただけませんか?」