「ご令嬢」
呼び止められて今度は別の意味でドキッとする。衛兵が険しい表情でリディを呼び止めた。
「は、はい」
さっき彼から言われた言葉が脳裏をよぎったが、下手な言い訳はかえって怪しく思われそうだ。
「……大丈夫ですか? 先ほど、曲者が入り込んできたと騒ぎがありまして。大事な花嫁候補が万が一にも攫われないように、と警備を強化していたところです」
衛兵がそう言い、リディの後方へと注意を向ける。
「そんなことがあったなんて……怖いですね」
平静を装って答えながら内心はバクバクと心臓が動いていた。無意識に胸のあたりを両手で押さえていた。
「ひょっとして控室に向かわれる途中でしたか?」
「ええ、そうなの。実は、迷子になってしまって」
「では、安全のため、私が控室までご案内いたしましょう」
「……ありがとう」
あの人はあのまま無事に逃げられたのだろうか。本来なら衛兵にさっきのことを告げるべきなのではないか。
リディは頭にちらつく彼の表情と、溶けるような甘い声、そしてキスの感触を振り払うようにかぶりを振った。
(私は、王太子殿下の花嫁候補になるためにここに来たんだから)
その後、なんとか無事に控室に戻ったリディは、二次試験の会場へと案内され、筆記試験のあと順番に面接を受けることになったのだが――。
王室の人間にじっと見られる面接では、何を受け答えたか記憶が飛んでしまった。
(……ここまでかしら。でも、伝えたいことは伝えたはずだし……きっと大丈夫、よね?)
筆記試験には自信があった。国をよくするための提案や改正案などが課題として挙げられていたが、父の手伝いをしていたときから考えていたことがあったからだ。花嫁になるということは、国王と共に国の未来を考える人間でなければならないのだ。
せめて二次試験は通過したい。そうすれば、花嫁候補の十人にはなるのだから。そしたらあとは三ヶ月の機会が与えられる。なんとか挽回することだって可能だろう。
祈るような想いで気持ちを込めてから、リディは再び、試験会場から元の控室へと戻ろうとしたのだが。誰かの視線がこちらへ向けられていたことにハッとする。
まさか、あの男が――と思い浮かべたが、違った。
回廊の先で手招きしている人物がいる。
リディはぱっと表情を輝かせ、その人物の元へと急ぎ駆け寄っていった。
「やあ、リディ」
控えめに微笑を浮かべているその人物は、ニコラ・ロイ・ラルジュ王太子殿下その人だった。
「二コラ……!」
「しっ。本来、まだ君は僕には会えないことになっているんだ」
二コラの後ろには二人の騎士が護衛についている。目が合うと彼らは黙礼した。
「…じゃあ、どうしてこちらへ?」
「別に僕がどうしようと関係ないだろ。まさか、僕の口から久しぶりに君の顔が見たくなったとでも言わせたいのかな」
素直じゃない二コラのツンとした様子にリディはムッとするどころか懐かしくなって頬を緩めた。子どもの頃から変わらない様子が嬉しくなったのだ。
「ふふ。私も会いたかったわ!」
「っ……君は相変らずだな」
毒気を抜かれたように二コラがため息をつく。
本来なら王太子殿下に対する侯爵令嬢らしい振る舞いをするべきところであるが、二人で会うときに二コラがそれを望んでいないことをリディはわかっていた。
「ええ。あなたも」
ふと、二コラがリディを凝視する。彼の眼差しには何か言いたげな色が浮かんでいた。
リディが思わずきょとんと首をかしげると、二コラはハッとしたように姿勢を正した。
「せいぜい最終候補に残れるようにあがいてみればいい」
「ええ! きっと、一番目の花嫁候補になって見せるわ」
「まぁ、どこの誰かも分からない相手よりかは、君が選ばれるのも悪くないかもしれないけれど……」
チラっと二コラがリディの方を見る。リディは溌剌とした笑顔を彼に向けた。
「私が選ばれたら嬉しいっていうことね!」
ぐっと二コラが言葉を詰まらせた。頭が痛い、といったふうに額に手をやる。その隙間から見える緋色の瞳が揺れ、微かに頬が朱に染まった。
「……っどうして君はそう楽観的なのかな。少しも君は動じない。まるで君も――」
二コラはそう言いかけると、なぜか悔しそうな表情を浮かべたあと、ぎゅっと唇を噛んだ。
「ふふ。あなたが素直じゃない分、私が勝手にいい方に解釈しているだけよ」
「そう。まぁいい。僕はこれで失礼するよ」
「ええ。お仕事がんばってね、二コラ」
二コラは一瞬また何かを告げようとしていたが、
「君に言われなくても」とだけ残してその場を去っていったのだった。