「だめよ。私はこれから行かなきゃいけないところがあるのっ」
「ここにいたおまえに運がなかったんだ」
「そんなっ。縁起でもないこと言わないで。これから大事な予定が控えているのに」
「安心しろ。こっちの用事が済んだらすぐに解放すると約束する」
どうやら衛兵が彼を追いかけているらしかった。
「あっちに行ったぞ!」という声がした。
リディは彼に引きずられるまま駆ける足を止められない。
「あなた、勝手に城に忍び込んだの? 命知らずね。ひょっとして間者か何か……?」
リディが思わずといったふうに尋ねると、彼のリディへ向ける瞳が妖しく煌めく。周りを警戒しつつ柱の陰へと移動したあと、彼はようやく足を止めた。
「誰が命知らずだって? 箱入りのお嬢さん」
彼が振り返ってリディを柱の背に追い詰める。
「な、何」
慌てふためくリディを尻目に、彼はその毒を孕んだ美しい貌を近づけてきた。あまりの至近距離にリディは身を硬くしたまま彼を見つめ返すことしかできない。蛇に睨まれた蛙の気持ちが少しだけわかった気がした。
「さっきの質問はあまりにも迂闊だ。間者に向かってあなたは間者ですかと聞いたらどうなるかわからないか。答えは――死だ」
獲物を捉えんと目を細めた彼に、リディは息を呑んだ。
「……っ」
命知らずなのはそっちだと、彼は言いたいのだ。たしかに彼の指摘は最もだった。
リディが警戒の目を向けたまま動けないでいると、彼は喉の奥をくっと鳴らし、不敵な笑みを浮かべる。しかしリディが震えあがっているところを見ると、やがて戦意喪失したように肩を竦めた。
「安心しろ。今のはただの忠告だ。殺しはしない。だが、俺だったから命拾いしたんだっていうことを忘れないでおけ。以降くれぐれも気をつけるんだな」
そう言い捨てて彼はリディから離れた。
リディはほっと胸を撫でおろす。いきなりのことに内側では心臓がどくどくと激しく高鳴っていた。けれど、彼の言いなりになっていてばかりはいられない。気持ちだけは負けてはいけない気がした。
「……っそれは、ご丁寧にありがとう。あなたこそ、いきなり私を連れていってどうする気なの」
そうだな、と彼は顎をしゃくった。
彼の見る方角には忙しそうにしている使用人の姿が見えた。
「退路を絶たれる前に、そのあたりの使用人から服を拝借しようか。おまえには衛兵の目をくらますまで秘密の逢瀬を重ねる恋人のフリでもしてもらおう」
「あなたの共犯者になれということ? 無理よ。そんなことできない。それに、そんなことをしたら、花嫁候補になれなくなっちゃうわ」
そうだ。リディはそのためにここにいるのだから。ただでさえ自信喪失しかけていたのに、自ら失点を作りたくない。
「……花嫁候補。箱入りのお嬢さんが? へぇ」
何か思うところがあるのか、彼はリディに向ける眼差しを深くする。興味を抱いているのか値踏みをしているのか計りかねるが、あまりじろじろ見られるのは居心地が悪い。
「あんまりそんなふうに見ないで。それに、箱入り、箱入りって……貴族の家の娘なのがいけないこと? 大事に育ててくださったお父さまやお母さまへの侮蔑をするつもり?」
「いや。貴族の娘でなければ、そもそもここにはいないだろう。ただ、花嫁になれる年頃にしては随分はねっかえりというか……幼……失敬、清純に感じたのでな」
そう言いながら納得したのは、成熟した身体のラインを目で確かめたからなのか。
リディは失礼な男への怒りと羞恥で顔を赤くする。
「あなた。さっきから、本当に、とっても失礼だわ」
「しっ。お喋りはここまでだ」
追っ手を巻いたのを確認した彼は、さらに死角になった場所までリディの腕を引っ張って連れていくと、一瞬にして使用人を倒し、服をはぎとった。
リディは思わず口元に手をやった。あまりにも慣れた所業に彼が間者のような曲者であることは否定しようがなかった。普段、間近で人を傷つける行為や、傷つけられる人の様子を見たことなんてない。ショックを受けたリディは遅れてやってきた恐怖に血の気が引く想いだった。
しかし彼は動じることはない。
「おまえは何も見ていない。もし何か聞かれたら、脅されて巻き込まれた。そういうことにしておけ」
再び衛兵らの足音が近づいてくると共に、彼がリディを抱き寄せる。
「ひゃっ」
名も知らぬ男の腕に閉じ込められ、リディは身をよじろうとするがびくともしない。逆にぎゅっと抱きしめられてしまった。
「は、離して。苦しい」
もがいていると仕方ないといわんばかりに彼が少しだけ腕を緩める。そして耳の側に唇を寄せてきた。
「おまえの名は?」
耳に溶けるような囁く声で彼が問いかけてくる。
ひゃっと声を漏らしてしまいそうになった。
彼のその声音は蜂蜜とバターを混ぜたみたいに甘い。腹部の奥にまで流れこんでくるみたいで、ぞくりと身が戦慄いた。こんなに近くで男性の低い声で囁かれた経験がないから知らなかった。
たちまち異性を意識し、かっと羞恥に耳が熱くなる。混乱を極めたリディはそのままとっさに名前を告げようとしてからハッとして踏みとどまった。素性の知らない怪しい男に本名を告げるわけにはいかない。
一拍のあと、リディは迷いを振り払って偽名を告げた。
「……リリーよ」
リディが強張っていると、窺うような目を向けられてしまう。だが、彼は疑念を向けることはしなかった。そればかりか、何かハッとしたような表情を浮かべている。
「……何か?」
「いや。いい響きのする名だ。覚えておこう。リリー、おまえのやさしさに感謝する」
彼はそう言うや否や、自分の名を告げる代わりにリディの頬にキスをした。
「……なっ!」
目を丸くしたリディを見てふっと微笑みを一つ残した彼は、衛兵たちが遠ざかって行ったあと、リディから離れてすぐどこかへ消えてしまった。まるで嵐のような人だった。
リディは唖然としてその場に立ちすくむ。
(――命は助かった。けれど、今のは……キス泥棒!)
ドキドキと鼓動が騒がしい。解放されたというのに息苦しいままだった。父や初恋の人以外に、あんなに近くに異性を感じたのは初めてだ。危険な人に違いないのに。剣呑な雰囲気を纏う彼だったが、意外にも頬に触れた唇の感触はやさしかった。
(彼は一体――どこからやってきた人なの?)