「横須賀のドブ坂通りは、小せえ商店街だがカレーが美味えことで有名なんだ。
この街が誇る海軍カレーと言やぁ、そりゃあもうシンプルだが絶品と来てる」
おとっつぁんはそう言ってテーブル席に座ると、メニューを開いてその瞳をキラキラと輝かせた。
横須賀のドブ坂通りにある、小さなカフェテラス。
名を『ルネラージュ』と呼ばれるカフェの一角。
俺こと田村 龍二と、その実父であるおとっつぁんーー田村 三平の二人は、テーブル席を挟み昼食を取ろうとしていた最中だった。
カレーのプリントが描かれたメニューを眺めては、口角の端をニッと緩ませているおとっつぁん。
その笑顔は、誰が見ても無邪気な子どもそのものだ。
大人が童心に返った様な気持ちなんだろうか?
まだ今年で10歳になったばかりの俺には、未だよく分からない気持ちだが……。
それでも思い出に耽っているおとっつぁんの姿を見ていると、子供ながらにとても眩しく思えたのは確かだった。
おとっつぁんの首からぶら下げられたビデオカメラのレンズが、太陽光に反射して白くて丸ぁるい光をメニューへと降り注ぐ。
その頭上から白い光がキラキラと注がれている様子が、俺にはまるで舞台に上がった役者を照らす。
スポットライトの光の様に思えてならなかった。
「本当におとっつあんは、カレーが好きなんだねえ」
「俺ぁこのカレーが思い出の味でよ。
こいつを食べると死んじまったお母ちゃんのことを、ついつい思い出しちまっていけねえんだ……」
「死んだお母ちゃんをかい……?」
「あぁ……お母ちゃんがよく作ってくれた手製のカレーがな?
この横須賀カレーとよく似た味付けをしてたんだ。
そりゃあもう美味えのなんのって舌を巻いて……!!
俺ぁいつでも大はしゃぎしてた訳よ!!
だから俺ぁ……このカレーを食う度によ?
そんなお母ちゃんとの思い出を……この瞳の下の
しみじみとお母ちゃんのことを語るおとっつぁんは、いつにも増してその瞳を虚ろわせている。
うるうると今にも泣き出しそうなおとっつぁんの笑みは、嬉し泣きと言うよりかは、どこか悲壮感に満ちている様に感じられた。
「ふ~ん。おとっつぁんは、幸せ者だなぁ」
それほどまでに好きな相手を見つけられる。
それは子供の俺には、まだよく分からない“恋”と呼ばれる感情だが、何だかとても微笑ましく思えた。
「お母ちゃん……元気にしてるのかなぁ?
確か……天国って所に行っちゃったんだよね?」
「……あぁ…………そうだなあ……。
お母ちゃんは……天国って所に一足先に旅立った……」
「その天国って場所に行くと、幸せになれるって話は本当かい?」
「あぁ…………そりゃあ勿論……本当さ……。
少なくとも地獄に行くよりかは……よっぽどマシな場所に違いねえ……」
力強く首を縦に頷かせたおとっつぁんは、そのまま片手を挙げて店員さんを呼び出す。
するとサッと現れたウエイターさんは、おとっつぁんの注文を聞く為にペコリと小さく一礼をした。
「ご注文は?」
にこやかな笑みを振りまくウエイターさん。
その直後におとっつぁんは、指先でコツりとメニューを指す。
「この横須賀カレーを二つ」
「かしこまりました」
注文を受け
その様子を横目で見上げていた俺は、視線を戻しておとっつぁんに問う。
「そんなに大事なカレーを食べる時ぐらいカメラは置いとけば良いのに……どうしていつも大事そうに付けてるのさ?」
ジト目の視線で問いかける。
それはおとっつぁんの奇妙な癖だ。
「不思議か?」
「うん……まぁね。いつも大事そうにしているのは知ってるよ。
けど、ご飯を食べる時ぐらいビデオカメラは外せば良いのに、って思って眺めてる」
俺のおとっつぁんは、すこし変わり者だ。
古びたビデオカメラを肌見放さず持ち歩く。
首からかけられる様に、同系色の
入浴をしている時でさえ。
俺は、そのビデオカメラを外している姿を見た事がない。
その姿は、一言で言うなら奇妙に映る。
「食べる時ぐらいは邪魔になるだろ?
テーブルの横に置いとけば邪魔にならない」
「ハハッ、全くだ。
テーブルの横に置いときゃ邪魔にはならねえ。
けどなぁ龍二? そいつぁ出来ねえ相談なんだ」
「えうっ……どうして……?」
「このビデオカメラも横須賀カレーと同じぐらい。
俺にとっては、大事な
「カレーと同じぐらいビデオカメラが……?」
「あぁ……良いか? このビデオカメラのレンズから見える景色は、なんと言っても特別なんだ」
「特別……?」
不思議に思った俺が訪ね返すと、おとっつぁんは瞳を伏せがちに静かに頷く。
「ちょうどこのカフェテラスからビデオカメラを使うと、あの横浜中華街の景色が一望できるんだぜ?
知ってたか?」
「それは……知らないけど……」
「その景色の綺麗さに心を奪われた日から。
俺ぁずっとこのビデオカメラで、あの街の景色を遠巻きに眺めるのが好きなんだ」
「中華街の景色を遠巻きに?」
おとっつぁんは嬉しそうに話すが、俺にはその言葉の意味が今一ピンと来ていない。
「でも……景色を見るだけなら……別にビデオカメラで見る意味なんて……」
わざわざそんな事をして何になると言うのだろう?
そう言いたげな視線で俺が首を傾げると、おとっつぁんはニマニマとした笑みを見せて不敵に微笑む。
「勿体ぶらずに話してくれよ」
「たくっ。子どもはせっかちで行けねえなぁ?
こいつぁな? そういう話じゃねえんだよ」
「そういう話じゃないって?」
「お前は知らないと思うが、このビデオカメラから見える中華街の景色は、近くで見た時よりよっぽど綺麗に映るんだ」
「それは……知らなかった……でも!!
一体どうして!?」
「物の見え方っつうのは、不思議なもんでよ?
遠くから見ているぐらいが、いつだって綺麗に見えちまう様なことが沢山ある。
だから……このビデオカメラから見えるあの街の景色は、俺にとっては特別な
そう言っておとっつぁんは、しみじみと目を細める。
何かを思い返すような優しげな笑み。
それはいつも目にして来ている、優しいおとっつぁんの笑顔そのものだ。
「思い入れかぁ〜。俺にはまだそんなもんないから、分かんないや」
「その内、お前にも大事な思い入れができるさ」
「じゃあ……いつか俺にもその思い入れが分かる?」
「あぁ勿論だとも。いつかお前にも分かるさ。
ーーきっとな?」
おとっつぁんがそう言って寂しそうに目を細めると、ちょうど俺たちのテーブル席にカレーが二つ分運ばれて来た。
コトりとウエイターの手で並べられる白い丸皿の上には、並々に盛られた白米の上からゴロッとした大ぶりの野菜が顔を出す。
その上からは、磯の香りが漂うイカやホタテと言ったシーフード仕立てのカレールー。
ーー匂いを嗅ぐ。
ただそれだけで食欲を
「うわぁ~!! すげー美味しそ〜!!」
スプーンを手に取りはしゃいだ俺。
そんな俺におとっつぁんは「だろ?」と言ってにこやかな笑みを振りまいて来た。
「カシラ……そろそろ……」
だけどおとっつぁんは、それきりカレーを口にする事は一度も無かった……。
ちょうどカフェテラスの近くに漆塗りの車が走って来た。
黒いセダンタイプの車が路肩に幅寄せして駐車するのが見える。
助手席から降りて来た一人のスーツ姿の男が、俺とおとっつぁんの席まで歩いて来るなり膝をつき、
「カシラ……そろそろ……。
例の核石の件で呼ばれています……」
ーー例の核石。
膝を付いたスーツ姿の男は、そう言って頭を下げるとおとっつぁんに耳打ちをいれる。
ゆっくりと座席から立ち上がったおとっつぁんが、申し訳なさそうに俺に向かってはにかんだ。
「悪い龍二。
ちょっとこれから野暮用が出来ちまった。
30分ほど席を外すから……お前はここでカレーでも食って待っててくれ……」
「う、うん……」
そう言っておとっつぁんは、スーツ姿の男と車の方へと向かって歩いて行く。
黙って見送る俺を背に、
「ありがとな龍二。
これも俺にとって……大事な思い入れの一つになるからよ……」
ボソリとそう言っている様な気がして、俺は途端に嫌な予感を覚えていた。
ひょっとしたらおとっつぁんが、もう二度と返って来ないんじゃないかと言う嫌な予感が……。
でも俺は、おとっつぁんに「待っててくれ」と頼まれた。
黙って見送るおとっつぁんの背中。
それが黒いセダンの後部座席に収まると同時、俺は武者震いを抑える為に目の前のカレーをかきこんだ。
「うん、美味いよこのカレー!!
流石はおとっつぁんの思い入れの味だ!!」
だけどおとっつぁんは、それを最後に俺の前から姿を消した。
※
ダダダダダダッ、とステン短機関銃から勢いよく発砲音が鳴り響く。
火花と共に銃口から発射された無数の弾丸が、男たちの肉体を服の上から貫いていた。
排莢後に飛び散った薬莢が、事務所の床へとカラカラと転がり落ちる。
田村 龍二こと俺は、冷めた視線と共に死体になっていく肉塊たちをボウ然と眺めていた。
「兄貴、今日の分はこれで終わりですか?」
「みたいだな」
ゴボゴボと血潮を吐き出しコンクリートの床に倒れた男たちを見下ろし、俺は田村に相槌を打つ。
あれから20年の月日が流れ、俺は反社会的勢力と呼ばれるヤクザの稼業の者たちを相手に反社狩りに勤しんでいた。
殺し屋としての稼業を営む裏社会としての地位。
それを築き上げれば、やがてはあの日の真実に辿り着くだろう。
すべてはーーおとっつぁんが最後に言い残した、俺への“思い入れ”の意味を知る為に。
「しっかし兄貴の仕事は、おっかないなぁ。
手際が速いって言うか……。
仮にもヤクザもんがこうもあっさりと寝転がっちまうだなんて……」
舎弟分である小塚は、そんな俺のことを自慢気に兄貴と呼んで来る。
実際、俺も既に裏社会の人間だ。
稼業が殺しとは言え、所属しているのは組になる。
俺は小塚の軽口に「あぁ」と相槌を打つと、弾いたばかりのステン銃の弾倉をスーツの肩口へと乗っけて、トントンと肩を叩いて遊んでいた。
「俺ぁ、昔っから喧嘩ばっかしてたからなぁ」
※
おとっつぁんが居なくなってからの生活は、俺の中で最も
母が他界してすぐのこと。
父もどこかへと消えて蒸発した。
そんな直後の俺に自分一人で生活して行くだけの宛なんて何処にも無かった。
まだ10歳にも満たない年齢だ。
それなのに帰る家の宛もなく、頼れる身内の一人も居やしない。
流れるようにこの横須賀の街で路上生活を始め、毎日喧嘩ばかりの日々に明け暮れていた。
だが、そのことが災いして、いつしか俺は他所の組員をやっちまった。
「テメエッ!! わてらがどこの組のもんか、分かってヤリやがってんやろうなぁッ!?」
キッカケは、本当に些細なことだ。
たまたま肩がぶつかった。
ただそれだけの事で因縁をつけられた俺は、その荒んだ心境のまま因縁をつけて来たヤツを殴り返してしまった。
後から知ればそいつらは、六郎会に所属していた末端の組員。
岩下組の構成員達だった。
「東京神奈川大租界ッ!!
天下の六郎会傘下の岩下組に喧嘩を売るたぁ良い度胸だなぁッ!!」
数人がかりでボコボコに殴られまくった俺は、最後には胸ぐらを掴まれ、近くにあった組の事務所へと連行されてしまった。
仮にもヤクザを殴り飛ばしたのだから、当然と言えば当然の結末だった。
「テメエどこの組の回しもんやッ!! わてら租界のモンに喧嘩を売ったからには、キッチリとケジメ付けて詫び入れてさせて貰うやでえッ!!」
手にした包丁をバンとまな板に突き刺した組員は、今すぐ俺に指を詰めるようにと迫って来た。
逃げられない恐怖心に駆られた俺は、その男の目の前で咄嗟に嘘をついていた。
仕方がなかった。
「
「今……なんて言ったコイツ……?
山城組やと……?」
「親父……山城組と言やぁ……確か……」
その名前を告げられた岩下組の連中は、動揺して顔を突き合わせていた。
勿論、山城組なんて真っ当な組織に。
見ず知らずのゴロツキであった俺が……関係を持っている訳もない……。
万が一にも助けに来る訳も無かった……。
ただ……その頃の山城組と言えば、この横須賀では少し名の知れた組織の一つだった。
東京神奈川の一帯を締めている大租界。
東京神奈川大租界・六郎会。
そこへ喧嘩を売ったと言われる小さな組織の一つである。
この横須賀に住んでいた者なら、当時その名前だけなら誰でも聞いたことがある筈だ。
「あぁッ……影の山城組のことやッ!!
片っ端から六郎会傘下の組員を弾いて回っとるっちゅう、とびきりの暗殺者組織やッ!!
小僧ッ!! ホンマにおどれ山城組の者なんかァッ!? 事と次第によっちゃぁッ!!」
組員にグッと胸ぐらを掴まれた俺は、言葉を失って身体から力が抜けかけていた。
実際の所そんな組の実態は、この神奈川には存在しないも同然だった……。
山城組なんて言う組織は、あくまでも匿名の組に過ぎなかった。
それでも……この東京神奈川大租界の連中なら、その名前を聞けば戦慄する筈。
そう思って俺は、組の名前を口にした。
だからーー、
「はよう答えんかいッ!!」
知る訳も無かった……。
小さな事務所の中だ。
六郎会傘下ーー岩下組の構成員達に詰め寄られる。
だが、俺にはその尋問に答えようが無かった。
当然だ。
山城組に所属しているだなんて真っ赤な大嘘。
命からがら口をついたハッタリでしかない。
「小僧……ッ!! もしその話が本当なら、今すぐ山城の組と連絡を取れるなッ!?」
そう言われてスマホを投げ渡されるも、俺には連絡先なんて知る訳も無い……。
もうダメか……そう思ったーーその時だった。
「邪魔するぜッ? 東京神奈川大租界。
天下の六郎会傘下の組員、岩下組の者達だな?
山城組……若頭をしている山城
奇跡がーー突然と降って湧いて出た瞬間だ。
事務所の扉が蹴破られ、そこからスーツ姿の男が一人で入って来た。
部屋の中に男を迎え入れた岩下組の組員達は、額に汗をダラダラと流しながら息を呑んだ。
「マッ、マジでこの小僧が言っとったことは……ホンマもんやったんか……ッ!!」
親父と呼ばれていた岩下組の組長は、小太りの腹を揺らすと両手を突き出す。
「ま、待ていッ!! まだ待って来れッ!!
そんなせっかちなもんはーー無しやッ!!
お前ん所の若いもんにーーまだケジメは付けとらへんッ!!
この通りやッ!! 堪忍してくれッ!!」
今日の所は、黙って帰れ。
そう言わんばかりに岩下組の組長が俺のことを指差す。
「へぇ……? うちの若いもんが……?」
山城 龍城はそう言うと、ふいに視線を向けて俺を見た。
足がすくんで近くに座り込んでいた俺を見下ろし、
「そいつァ……うちの組員じゃありませんが?」
「はぁ……ッ!? いやッ!!
だってこいつッ!? えッ……!?」
ハハハと言う渇いた笑いが、俺の口元からは零れ出ていた。
「ほッ……ほんならッ!!
なッーー何でアンタらがこの事務所にまで乗り込んで来たんやッ!!」
「うちは……ヤクザ狩りを専門にしているヤクザ組織でしてね。
正式名称は、山城の組じゃなくて……反社スレイヤーって言うんですよ……」
「反社スレイヤー? 何やそれは……ふざけてんのかいなッ!?
お前らヤクザもんとちゃうんかッ!?」
山城 龍城は何が面白いのか、フフッと含みのある笑みを零して組員達を眺めていた。
「それにしても坊主。うちの組の名前を名乗るたぁ、一体どういう了見なんだ?
まっ……後でその話はしっかりと聞かせて貰うか。
こいつらの片付けが終わってからーーだがな?」
「チッ!! 何やそれ言わせておけばッ!!
うちらも舐められたもんやでッ!!」
「親父ッ!!」
「あぁッ!! 反社スレイヤーか何や知らんが、極道舐めとったら後悔させたるがなッ!!」
おい!! やってまえ!!
岩下組の組長が顎ですかさず指示を飛ばす。
すると周囲に立っていた組員達が、続々とその懐からハジキを取り出し片手に収めた。
スーツ裏の内ポケットから取り出されたそれらのハジキがーーバンバンッ!!
と言う発砲音をたちまち幾度も響かせる。
撃ち出された鉛の弾丸は真っ直ぐに進み、山城 龍城の身体へと向けて当たる。
だが、
「バカなッ!? 何で生身の人間が、ハジキの弾を止めてるんやッ!? どういう理屈やねんッ!?」
岩下組の組長が驚くのも無理はない。
俺もその光景には、同じく目を剥いて驚いていた。
山城 龍城に向けて放たれた弾丸は、確かに山城の身体へと真っ直ぐに進んだ。
そして、
「弾が空中で止まって……」
クルクルと回転している弾丸が見える。
弾は、すべて山城に向かって進んだ。
だがーーすべての弾丸がそこから微動だにしない。
その様子は明らかに異常。
普通の人間の仕業ではないと一目で分かる。
「一体……何が……ッ」
「小僧ーーよく見とけよ?
これがお前の騙ったホンマもんの山城。
その組員となったもんの真の姿や」
宙に浮きながらクルクルと回転していた弾丸は、次第に推進力を無くしてコンクリートの床へと落下する。
「スレイヤーズ法、第一条、第一訓。
自らの能力を明かしたからには、必ずやその敵を殲滅せよ。
よってお前らには悪いがーーここで全員死んで貰うとする」
後のことなんて言うまでも無い。
たった一人で乗り込んで来た山城 龍城を前に、ハジキを手にしたヤクザなんて通じる訳もなかった。
何故ならこの国で最も強いのは、拳銃を持ったヤクザじゃない。
そのことをハッキリと理解した上で、俺は山城 龍城に連れられて外へと出た。