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第2章第1話

 一輝さんは、私に無防備な姿を見せることが増えた。私のアパートが気に入ったようで、あれから一か月のうちに三度も行った。こたつがよかったんだろうか。寝室との境、襖の前の席は、今では彼の指定席。


「ホテルには、こたつはないですものね」

「会社にもない。仮眠室に置くか……いや」

「何です?」

「一人で入ってもつまらない」

「寝ちゃうのに?」

「灯里がいるからいいんだ。こたつなら何でもいいわけじゃない」

「……その手には乗りませんよ」

 私が警戒して近寄らない仮眠室は、社長室の一角にある。彼は有言実行を絵に描いたような人だから、私から決して目を離さず、物理的にも極力離れない。この状態で仮眠室にこたつを置いたら大変。絶対、仕事にならない。

「わかってる。だから、な……ここでは、俺を甘やかしてくれ」

「はい……」

 すぅすぅと寝息を立てる彼を見守っていると、自分の中の人間らしい感情が目を覚ます。季節が色づくにつれて、私の心も開いていく。八歳上のいたずらっ子は、私を振り回しながら成長させてくれる。

 それでも私の中には、永遠に溶けない氷の洞窟のように、冷え切った部分が残っている。人は、あっけなくいなくなってしまう。入れ込んじゃ駄目、傷つくだけ。そんな風にブレーキをかけていれば、結局は相手をも傷つける。

 二月十一日に似た人を見て思い出した、大学の時に付き合っていたあの人も。私の心の準備ができるのを待つと言ってくれたけど、待てなくなって強引な手段に出た。私が驚いて、拒んで……彼は悲しそうに手を離した。

「なのに、あっさり……」

 一輝さんは、出会ったその日に私を――。

 二人の違いはどこにあるんだろう。好きだと言ってくれて、楽しく付き合っていた――少なくとも私はそう思っていた――本当の恋人と、契約で結ばれた偽装婚約者と。

「経験と年齢かなあ」

 元カレの木津きづさんは、私より一年上の学生だった。うまくいかなくなったのは私のせいでもあるのに責めず、「留学するんだ。そのままずっと向こうにいるつもりだから……ごめんな」って。「星吾君のことで何かわかったら、実家の方へ連絡入れるよ」とも言ってくれた。弟が急にいなくなって気持ちの整理がつかず、せっかく入った大学で身の置き所がなかった私を、周囲と馴染ませてくれた。当時の私から見れば、物凄く大人。

 そうは言ってもこの人と比べたら……と一輝さんの髪に触れると、「ん~」と満足そうな声を発した。頭を撫でやすいようにちょっと動くと、はしっとスカートを摘まんでくる。行っちゃやだ、って指先が訴えている。

「どこにも行きませんよ。私の……」

 私の――何だろう?

 自分が言いかけたことに戸惑っていると、彼の唇が動いた。

「あかり……おれの……」

 寝言。続きが気になる。

「俺の……何ですか?」

「んー……」

 あとは、むにゃむにゃ。秘密は眠りの中。見ていると、眠気が伝染する。夕食と明日の朝食の献立を頭の中で作りながら、彼の手を握ってうたた寝した。


 相談役と会長へのご挨拶は、なかなかお会いできず遅くなった。私が社外に出ていることが多いのが一因。

 ある日、私が直接話した方が早いいくつかの件で下へ行こうとした時、駐車場から直行のエレベーターが上がってきた。お辞儀をして迎えると、豪快で温かい声が降ってきた。

「おお、これは。戸倉さんだったね。よく来てくれました。顔を上げてください」

「戸倉灯里と申します。ご挨拶が遅れまして大変申し訳ございません」

 ゆっくりと顔を上げると、目の前に、背の高い白髪の紳士がいた。一輝さんの父親、豊宮二朗様だ。

「あいつは鉄砲玉みたいでしょう。しっかり手綱を握ってやってください」

 人好きのする笑顔は、一目で相手の心をつかむ。一輝さんが、触れるものを片っ端から陥落させていく魅惑の星なら、二朗様はどっしりと構えた大地。その上にあるものすべてを掌握する。

「お力になれますよう、必死に勉強中でございます。なにとぞよろしくお願いいたします」

「頼りにしていますよ」

 そこへ真夜さんが現れた。彼女のことだから、相談役が上がってきたことは気付いていて、私にご挨拶の時間をくれたんだろう。

「お帰りなさいませ」

「やあ、矢崎君。向こうで打合せをしようか」

 真夜さんは私の横を通る時にパチンとウインクして、相談役は私に目礼して、オフィスへと歩いていった。二人の姿が見えなくなったところで、背後に一輝さんの気配。振り向くと、扉の隙間から体を半分だけ出して覗いていた。

「いたずらが発覚した子供みたいな顔してますよ。ちょっと行ってきますね」

「三十分経っても戻らなければ探しに行く」

「せめて五十分ください。いくつかまわってくるので」

「三十五分」

「……四十五分」

「四十分だ」

「うーん、わかりました。何とかします」

 私が下へ行くたびにこれ。頭の中で練り上げた最速の順番を、さらに練り直す。うぅ、また下のフロアの人たちに弾丸呼ばわりされてしまう。幸太のフォローによれば、「来て声がしたと思ったら、もういない。仕事はきっちりしていく」という意味なんだとか。悪い意味ではないのはありがたいけど、ほかの人たちとももう少し話してみたいなあ。

「余計な案件を拾ってくるなよ」

「余計って」

 彼がこの調子だから、下へ行くと、待ってましたとばかりにまとめて相談される。「戸倉さんっ。これとこれとこれ、どう思いますかっ。今じゃなくていいです、あとで連絡ください!」と、早口で。戻るのが一分でも遅れて私が怒られてはいけないと、みんな気遣ってくれる。エレベーターのタイミングなどもあって、制限時間を数分過ぎることはある。

 で、遅れると、彼が怒るのかというと……一般的な社長の叱責ではない。ニヤッと笑って「今夜はお仕置きだな」と、それはそれは楽しそうに言うのよ! エレベーターの前で待っていることもある。「まさかずっとここで待っていたんじゃないですよね?」と念のため聞き、「仕事は済んだ」と言うから部屋へ入って確認する。本当に済んでいるから、それ以上たしなめることもできない。お仕置きと言っても、結局優しいし……ね。

「では、四十分で戻ります」

 エレベーターに乗り、見送る彼に頭を下げる。飼い主と離れるのをいやがる子犬のような目をするから、扉が閉まったあと、下降する密閉空間で悶えてしまう。

「かわいすぎる……」



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