すやすやと眠る彼の手から、そっと指を引き抜いて立ち上がった。何かかけてあげないと、冷えてしまう。押し入れから予備の毛布を出し、背中にかけた。食器は、できるだけ音を立てないようにして片付けた。
「さて、あとは」
一輝さんの頭の向こう。抜き足差し足、忍び足。襖をそろそろと開けて、寝室として使っている四畳半へ。本棚の一番手前に立っているのは、読みかけのミステリー。出窓にはパズルの本。
「やってる暇、ないか」
気になってはいたものの、手にとってパラパラと開き苦笑した。パズルは気分転換にいいんだけど、新しい生活は新鮮で斬新で、まだまだ私の手に負えない。ホテル暮らしで物を増やしすぎるのも、あとが大変だし……うーん、どれくらいあそこにいるんだろう。
クローゼットを開けてみる。
「服は、余るほどいただいちゃったし」
来てはみたけど、急いで持っていくものはないかなあ。時々来ていいって言ってくれたしね。
「あ……荷物開けてなかった」
お母さんからの。玄関を入ったところに置いてもらったんだった。中身は、日持ちのする食べ物や衣類だと思う。失業した時に電話して、それっきりになってたから心配させちゃってる。
「電話……うーん、メールにしとこう」
襖の向こうの、眠り姫ならぬ眠り王子を起こさないように。荷物のお礼と、再就職できたこと、アパートからはちょっと遠いから会社の厚意で当分ホテル暮らしになることを書いた。
『詳しいことは、電話か、次に帰った時に話すね。お父さんもお母さんも体に気を付けてね。私のことは、もう大丈夫だよ。 灯里』
送信してから読み返すと、前からの癖で強がりな文章になっていた。
「これも私、だよね」
十八歳からの癖は、簡単には抜けない。一輝さんに対するように、構えない私を見せるのは、家族が相手でも難しい。
お父さんと親友の
もう一人、知らせたい相手には……メッセージは送れない。送り先がわからないから。
「星吾……」
出窓に置いた写真立てには、あの子が中学を卒業した春の写真。私と並んで写ってる。桜が、いつもより長く、いつもより濃い色で、恐ろしいほど美しく咲いていると……悪いことの前兆のように囁かれていた年。星吾は桜の魔物に連れていかれたんだ、なんて言う人もいたっけ。
「私はいいけど、お父さんとお母さんには、連絡ぐらいしなさいよ」
わかってるよー、って。わかってなさそうな返事が、写真から聞こえてくる気がして、つい話しかけてしまう。
「灯里」
声がしたのは、細く開いた襖の向こう。
「一輝さん?」
「おいで。一人で泣くんじゃない」
「泣いてませんよ……」
写真立てを置き、隣室へ。足を一歩踏み入れた途端、ぐいっと腕を引かれた。
「きゃっ」
あっという間に、ひと眠りして気持ちよさそうな王子様……ううん、王様の腕の中。
「危ないでしょ……」
「嘘はいけないな」
「え? ……あ」
彼の指には、拭った私の涙。
「隣に入るといい」
「無茶言わないでください。こたつが壊れます」
「抱きしめて、慰めてやりたい」
「一輝さんが、こたつから出ればいいじゃないですか」
「もはや脱出不可能だ」
「こたつですもんね……」
クスクス笑って、見つめ合う。彼の隣にいると、泣くことも、涙が止まることも、怖くなくなる。
「一輝さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「全部、です。一昨日からのこと」
「灯里は才能がある……俺を甘やかす天才だ」
頬に触れた手に目を閉じれば、時間はないも同じ。
この日は、ホテルに帰らなかった。
二月十三日。アパートから早めに出て、ホテルへ寄ってから出社。一輝さんは会社に直行でいいと言ったけど、私が止めた。
「私は自分の家だから着替えがありましたけど、一輝さんはそうじゃないんですから」
「会社にも着替えはあるんだが」
「気分の問題ですっ」
社長室フロア直行のエレベーターなら、誰にも会わずに上まで行って着替えられるけど。真夜さんや、途中で会うかもしれない明田部長のあたたかーい眼差しに、私はまだ慣れていない。
アパートから持ってきた荷物も、この日の朝、ホテルに運んだ。上昇するエレベーターの中、家族からの伝言を伝えた。
「両親から、『うちの娘を採用してくださってありがとうございます』と」
「感謝しているのはこちらの方だ」
「ふふ……」
甘やかしているのは、どちらでしょうね?
秘書としての仕事も、本格的に始まった。ご挨拶まわりの合間を縫って、一輝さんのところへ集まる情報の取捨選択や、各部署への伝達、関連事項の調査、分析。綻びが出やすい場所を覚えれば、なすべきことが見えてくる。彼の頭の回転の速さについていくのは楽しいし、物事の線引きの位置が同じだから、決断しやすい。ここから先は駄目、じゃあどの辺で手を打とうか……と考えていく時の、思考の方向性が似てる。それは、同じ未来を見られる、目指せるということ。
豊宮一輝の懐刀として、戸倉灯里の名が各業界に知れ渡るまで、そう時間はかからなかった。