お店からホテルへの距離は、思っていたより短かった。車を降りて、私たちの部屋へ向かうまでの時間は、じれったく感じられた。彼はエレベーターの中で、私を抱きしめて体温を分け与えた。
「もう寒くないのに」
「一度冷えると厄介だからな。……怒っているか」
「え?」
「坂添と勝手に交渉したことだ」
「怒ってません。必要なことだったんでしょう?」
「いやな思いは絶対にさせない。約束する」
切ない声。思った通りこの人は、偽装婚約の相手が傷つくことを恐れている。始めてしまったからには進むしかないけれど、戸惑っているのは私だけではないのかもしれない。
「大丈夫です。信じてますから」
「灯里……」
部屋に着いて、順番にシャワーを浴びて、手を取って。頬が触れるほど近付いたら、迷いも疑念も消えていく。今夜はお仕置きという名目もなく、アルコールも入っていない。より婚約者らしく見えるように――ただそれだけのためだとしても。彼が私に教えることを、ひとつひとつ、大切に受け止めていく。ベッドで彼が見せてくれる熱っぽい瞳を、胸の奥に刻み込む。
嘘でも、愛がなくても、私たちの行為には、相手を尊重する気持ちはちゃんとあると思う――。
「おはよう」
「おはようございます」
第二夜が過ぎ、彼と出会って三日目の朝が来た。二月十二日。今日は、隣に寝たまま目が覚めた。今まで知らなかった種類の充足感。労わってくれる一輝さんのことは、ベッドではどこまでも紳士なんだと思うことにする。
「今日も頼むぞ、相棒」
「はい」
鼻をくすぐる指先をつかまえると、そのまま手を握って指にキスされた。薬指にも唇が触れて、視線が交わった。映画や小説ならプロポーズの場面になりそうだけど、私たちはそうならない。けれど彼の目は真剣。迫真の演技。主演男優賞もの。気圧されて何も言えずにいると、柔らかく笑って、「朝は特別に綺麗だ」と言ってくれた。
私の中の、空虚だった部分。怒涛の勢いで、一輝さんに埋め尽くされていく。いいんだよね、それで。これがいつかなくなっても……思い出を胸に、生きていけるよね。
昨日よりは多少穏やかな朝食を終えて、午前中は会社へ。各部署をまわってご挨拶をした。私が一輝さんの秘書になったことは、すでに全部署に通知されていた。季節外れに突然雇われた秘書の私を、みんな温かく迎えてくれた。社風がそうなんだろうな。
会長と相談役は今日からアメリカへ出張で、帰国されてからのご挨拶になる。アメリカには、一輝さんの次兄の
明田部長にも、改めて挨拶をした。幸太と三人、部長の部屋で少し話した。
「すまなかったね。私からは何とも説明のしようがなくてね」
「いえ、大丈夫です。びっくりはしましたけど」
「……続けられそうかな?」
「はい。社長さえよければ」
用心して、その程度の言葉しか交わせないけど、二人ともホッとしたみたい。秘密を知っている人が三人とも、とてもいい人たちだから心強い。
午前中の終わりにいったん社長室へ戻り、仕事にひと区切りついた一輝さんと共に駐車場へ。行き先は、私のアパート。できれば今日は、彼を驚かせてみたい。
「あ、そこです。クリーム色の壁の」
屋根はオレンジ色で、窓枠は薄いピンク色。どこかお菓子の家を思わせる二階建てのアパートに、二日ぶりで帰り着いた。私の部屋は二階の真ん中、二〇三号室。
「あそこで待ってる」
彼は、アパートの先にあるパーキングを指さした。
「よかったら、上がってお茶でも」
「いいのか? 未婚女性の部屋に怪しい男を連れ込んで」
「怪しいって」
思わず吹き出してから、あえてまじめに返してみる。
「婚約者なら、構わないでしょう?」
「灯里……」
「昨日言ったこと以外にも、いくつかあって。少し時間がかかるので……その」
うぅ、思わせぶりに言って部屋に入ってからびっくりさせたかったのに、今言っちゃいそう。サプライズって難しい。彼はあんなにスマートに、次々できちゃうのになあ。
「わかった。では行こうか」
私が何か言いたくて、言えないのを察してくれる。手を握ってきて、にっこり。
「はいっ」
唇を奪われないうちに、急いで降りた。
笑いを噛み殺して降りてきた彼は、まずは一階の一〇一号室を目指す私に続いた。この部屋には管理人さんが住んでいて、留守中の荷物の預かりもしてくれる。五十代半ばの、親切な女性。二日間の不在をお詫びして、ちょうど届いていたお母さんからの荷物を受け取った。しばらく戻れないことも伝え、その間の留守をお願いした。
「すみません。よろしくお願いします」
「時々、様子を見に来る時間を作りますので」
深々と頭を下げる私の後ろから、一輝さんが言い添えた。管理人さんはぽーっとしてしまい、また彼のファンが増えた。
お母さんからの荷物は大きくて、彼が部屋まで運んでくれた。
「ありがとうございます。狭いですけど、どうぞ」
招き入れて、暖房を入れ、冷蔵庫を覗いた。うん、あれと……冷凍庫のあれと。何も買ってこなかったけど、できそう。
「一輝さん、お昼どうします?」
背中にぺったりくっついてきた彼に聞きながら、ヤカンを水で満たしていく。お湯を沸かして、それから……と頭の中で組み立てる私の考えを、彼はとっくに見抜いていた。
「作ってくれるんだろ?」