「ああ、お嬢さんに風邪でもひかせたら大変だ。未来の社長夫人にもしものことがあれば、うちの方が損害賠償ものだからねぇ」
坂添の声には、思いやりさえこもっているように聞こえる。何に、誰に対して優しくしたいのか知らないけど、それあなたの誤解だからっ。私は社長夫人になんてならないからっ。婚約者を装ってるだけだから!
と説明できたら、すっきりするだろうに。一輝さんが否定を口にしないということは、この人を一緒に騙せということ。不用意な言葉で計画をぶち壊すわけにはいかない。常識外れであっても、契約は契約、約束は約束なんだから。
私は、冷気から庇うように支えてくれる一輝さんに微笑みかけ、坂添の顔をまっすぐに見た。『あの豊宮HDトップついに熱愛発覚!』でも、『お相手は秘書! 未来の社長夫人に選ばれた本当の理由は!?』でも、何でも書いてみなさいよ! それこそ、この人の思うツボなんだからねっ。
「いい目だ」
坂添は私の視線を受け止め、鷹揚に頷いた。
「そうでしょう。私もこの目に惚れましてね。しかし、どれも実にいい。引き伸ばして壁に飾りたいぐらいだ」
「掲載した見本に、特別に付けて送りましょう。そのぐらいのお礼はさせてもらいますよ」
「ありがたい」
「えっ」
口を挟まないのが得策だとしても、驚きの声が漏れるのは許してほしい。掲載前提でいいわけ!? どんどん話を進める二人の顔を、交互に見た。
「もう終わりにするからな」
よしよし、と髪を撫でる一輝さん。うんうん、と見守る坂添。私の偽婚約者も説明が足りないけど、この記者はその上をいく。私も当事者なんだから、わかるように会話しなさいよーっ。
「ひとつ相談なんですがね。時期を待っていただきたい。記事の内容に文句はつけませんよ。信用していますから」
「そこまで言われちゃあ、待たないわけにはいかない。ですが、うちが一番乗りだってことは書かせてもらいますよ」
「当然です。……すぐに行くから、乗っててくれ。暖房をつけてな」
「はい」
車のキーを渡され、階段を降りた先にある駐車場へ向かった。冷えた車内が暖まるのを、二人の様子を見ながら待った。声は聞こえないけど、何かまだ話してる。一輝さんの申出を、坂添が承知したらしいのはわかる。
「仲が悪いわけでも、ないみたい……?」
何も知らずに見れば、二人は親戚か、学校の先輩後輩くらいには親しくて、年上の坂添が一輝さんを励ましているようにも見える。
「ほんっと、人たらし……」
一輝さんは天性のそれだけど、坂添もそう感じさせるものがある。でなければ、記者は難しいのかもしれない。いろんな人の懐に飛び込んで、本音を引き出さないといけない仕事だものね。週刊誌なのかな。
いいことも悪いことも、ほんとかどうか誰にもわからないようなことも、パッと広まってしまう、情報という武器。私のあの人は、今それを最大限に利用しようとしている……。
「ん?」
――私のあの人。
「いやいやいやいや」
違うから! あの人は私のものではないし、私もあの人のものじゃない。束縛も拘束も、永遠の約束もない。あるのは期限付きの、毎日二十四時間続く豊宮劇場。私はお給料をもらう、彼は縁談にわずらわされない生活が手に入る。それだけの関係!
「あれ? でも……」
期限を明確に区切られてはいない。今日、会社でサインした書類にも、いつまでということはひと言も書かれていなかった。
昨日から落ち着いて考える暇がなくて、前へ前へと進んできたけど……誰も私に、終点を言い渡してはいない。明田部長も、真夜さんも、一輝さんも。
「うーん……」
今朝の、車の中での話を思い出してみる。
――その類のお話が来ないようにするため、私と契約を?
――まあ、大筋はそんなところだ。
「大筋って」
全容は明かされていないということ?
その会話のあと、人選に疑問を呈したら彼の具合が悪くなって、医者にいくようなものじゃないと言われて。「俺を信じられるのなら」という、今思えば答えになっていない言葉でごまかされた気がする……。それで話は終わって、私は適当に、実に適当に自分の中で納得したんだった。様子を見るんだろうなーって。
「あの人といると思考能力が低下する……というより、成り行き任せになる……?」
一輝さんがそう言うなら、まあやってみる?っていう気持ちにさせられる。乗せられてる。それが、彼を信じるということなのかもしれないけど。
自分が適任なのかどうかと私が首を傾げている間に、一輝さんが運転する行先不明の列車はずんずん進んでいく。途中で何が起こるかもわからない、正にミステリーツアー。
偽装婚約って、いつやめればいいの?
いつまで続ければいいの?
……いつまで、続けていられるの?
一人では、答えが出ない。お店の階段では、坂添が軽く手を上げて上に戻っていった。私たちを追って出てきただけだったんだ。駐車場までは街灯があるから、向かってくる一輝さんの表情がわかる。悪くない結論を得たみたい。車に乗り込むと、シートベルトをする前に私を抱きしめた。
「冷えただろう」
次に来る言葉を予想しながら、頷いた。
「しっかりあっためてやるからな」