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第1章第20話

「灯里」

 名前を呼ばれ、考えていることが伝わってしまったのかとドキッとする。そうじゃなかった。

「お前の番だ」

「え?」

 彼は私の方へと身を乗り出し、「それも食べてみたい」とおねだりした。私の方は、ホワイトチョコレートのケーキ。食べたいっていうのは、こういうこと……だよね?

「はい、どうぞ」

 まだ手をつけていなかったケーキを、大きくひと口取って彼の口元へ。予想より大きなかけらを差し出されて、目を丸くしてる。かわいい。

「気前がいいな」

 ニヤリと笑って、大きく口を開け、きれいに食べた。

「私はふた口いただいたので」

 まだ至近距離にある顔は、甘いだけのものから、もっと濃密な時間へと誘う色を孕んでいる。今夜も、彼がその気なら拒むつもりはない。

 だから。

 偽物の恋人さんに、自分からキスをした。軽く、だけど。

「……灯里」

 離れた唇。絡む指先。熱い眼差し。

「ケーキ、食べちゃいますね……はい、手伝ってください」

「あ、ああ」

 残りを食べて、食べさせて、お皿が空になった頃、ふと上を見ると星座の位置が変わっていた。ギリシャ神話で星座になった人たちは、悲しい話が多い。私たちの物語がどんな結末を迎えても、別れた後それぞれが見上げる星空が、優しくお互いを思い出せるものだったらいいなと……祈りを込めて、席を立った。


 扉の外は石段。よく見るとお店の建物は、どこかギリシャの神殿を思わせる造り。

「また来よう」

「はい」

 その言葉が、本当でも、嘘でも。差し伸べられた手の温度は、嘘じゃない。手をつないで、一歩一歩、帰るのを惜しむようにゆっくり降りる。ホテルへ戻れば完全に二人きりになれるのに、外でこうしているひとときも、かけがえのない大切なもの。

「豊宮さん」

 背後から声をかけられた。振り向かなくても、一輝さんは声の主がわかったみたい。「俺に任せろ」と囁いて、足を止めた。私たちを追い越して、一段下で止まったのは、五十歳くらいの男性。きびきびとした動きの中に、妙な余裕を漂わせている。

坂添さかぞえさん。いい夜ですね」

「皮肉をどうも。見つかっちまったなあっていうのが正直なところでしょう。こんばんは、お嬢さん」

 私は、「こんばんは」と丁寧に頭を下げた。どんな相手にも、挨拶だけはきちんと。あとは、いやなら無理に相手をしなくてもいい。目上の人たちから教わってきた、私なりの処世術。

 坂添という男は、私を頭のてっぺんから足の爪先まで素早く見た。

「なるほど。気が強そうだ。豊宮グループのトップが選ぶだけのことはある」

 は!? と口から飛び出しそうになったのを、飲み込んだ。見事に引っかかった……ってこと? 雰囲気からみて、雑誌記者の人かな? 大企業の社長のスキャンダルを入手!って言いたいんだろうか。あ、この場合は彼が浮気をしているわけじゃないから、単なるプライベート? 

 あれ? 一輝さん、本命っていないんだっけ? 本物の彼女はどこかに隠してて、世界に「この人です!」って見せるのは私っていうことも考えられる。それなら私は浮気相手になるわけで……あー、またぐるぐるしちゃう。それどころじゃないし、私は豊宮一輝不器用説を支持し始めているのに。

 一輝さんは、つないだ手に力を込めて不敵な笑みを浮かべた。

「煽らなくても、いずれわかりますよ。で? 撮ったものを見せていただきましょうか」

「フム、これは正式な夫人候補かな? でなければ、用心深いあんたが人前でこんな真似しないだろうさ」

「ほぅ。あの薄暗い店内で、よくここまで。なぁ?」

 同意を求められても困る。坂添のスマートフォンに表示された画像は、私が一輝さんにケーキを食べさせているところ。彼の幸せそうな顔。私も……とろけた顔してる。嘘でしょ!? もっと冷静なつもりだったのに! ううん、これは演技よ演技! 「あーん」を真顔でされても嬉しくないだろうから、って……ちょっとぐらい、優しく笑ったかもしれない。 

 っていうか……私、こんな顔するんだ……。

 警戒心の一切ない、安心しきった顔。目の前にいる人を信じ切って、自分の存在を預けてる。鏡に向かって作る笑顔は、こうはならない。今まで撮ったことのあるどんな写真でも、自分のこれほど無防備な表情は、見たことがなかった。

 画像は数枚あって、最後の一枚にクラっときた。

 キスも撮られてた!

「実によく撮れてる」

「これがなきゃあ、な……あんたに妹でもいたかと、調べようと思ったんだが」

 つないでいない方の手で、一輝さんのコートにぎゅっとつかまった。彼にはキスのことで文句を言っておきながら、私のせいでこんなことになってしまうなんて! 高値で買えば公表しないって脅してくるの? それとも「記事にしますよ。いいですね」って言いにきただけ?

 画面から目を離して坂添の顔をちらりと見ると、意外なほど穏やかな笑みが返ってきた。温かいと言ってもいい。それで私はますます迷路にはまり込む。

 すぅっと冷たい風が通り過ぎて、ゾクッとした。

「寒いか? すぐ済むからな」

 画像を見て思案顔の一輝さんは、つないだ手を離し、大きな手で私の肩を抱き寄せた。



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