にっこりというか、にんまりというか。いたずらが成功した子供の顔だ。昨日の夜、助手席を守るように車の外に立っていた静かな後ろ姿とは、別人に思えてくる。問題は、こっちの顔が、かわいくて仕方なくなってきている私の方。八歳違いの彼が、年下に感じられてしまう。
「仕方ないですね……」
はらりと零れた髪を直してあげると、彼も私の髪を整えてくれた。
「よく我慢したと褒めてくれ」
ぐっ。こ、この人はっ。契約期間中、毎日こんなやり取りが続くんだろうか。褒めないと車は発進しない。私の夕食も始まらない。そういう人だ。
「……一輝さんは、偉いですね」
「何が」
「我慢したことです。よくできました」
なぜ褒めないといけないのか、全然わからないけど! 頭に軽く触れて、よしよしと撫でることまでしてみた。社員が社長にって……あり得ない。
「うん」
一連の行為に満たされたらしい彼は、チュッと私のおでこにキスをして、運転の体勢に戻った。何事もなかったかのように車が動き始める。一輝さんはというと、エネルギー満タン!という感じでキラキラしてる。偽装婚約者とのキスがそんなに嬉しいのかな。不可解な人。
不可解なのは、私もだ。離れた途端、寂しいなんて。
窓の外を、街が流れていく。温かみのあるライトで照らされた店先。バレンタインフェアで賑わうデパート。十四日が平日のせいか、祝日の今日が特別なデートになったらしいカップルの姿もちらほら。肩を抱かれて幸せそうな女性もいれば、お互いまだ緊張して、来たるべき瞬間を恐る恐る待っている、そんな二人もいる。
私と一輝さんは、どう見えるんだろう?
スマートな運転を楽しむ横顔。昨日の昼間、初めて会った時に圧倒されたオーラは、いたずらっ子の彼と無理なく同居して、車外にバンバン漏れている。通りすがる人が、息を飲む。彼は今日も無自覚に、ファンを増やし続けている。
まさか、私が婚約者だなんて誰も思わないよね。信じてもらわないと彼の計画は成功しないから、それらしく振る舞うことは了承したものの。
慣れた彼のペースに乗せられて、心地よくて。寒かった冬が、暖かな春へと向かっていく。初めて勤めた会社の退職は辛かったけど、一輝さんとの出会いで救われた。森戸社長の思いがわかったというのもあるし、一輝さんの優しさに慰められているというのもある。
年下の男の子みたいな、年上の人。契約期間中は甘えさせてもらって、次の人生を少しゆっくり考えてみようかな。
彼は、私が考え事をしているのを遮らない。その間、興味なさそうにしているんじゃなくて、ちょっぴり心配そうに視線を投げてくる。大丈夫ですよ、泣いてません。安心させたくて微笑むと、同じ熱量の笑みが返ってくる。
「一輝さん、選んだのが私でよかったですよね……」
心の声が、思わず外に出た。
「自信が出てきたか? いい傾向だ」
「そういうわけでもないんですけど」
彼の勘違いはそのままにして、心の中で思いっきり叫ぶ。契約したのが私じゃなかったら、本気にされて後戻りできなくなってますからね!? 契約終了しても女性の方は諦められなくて、後ろから刺されるかもしれない。防弾チョッキが必要なのは彼の方だ。
「……あれ?」
次は何を言い出すのかと楽しそうに私を見ている彼の向こう……今、通り過ぎたビルの窓際。カフェの喫煙席。見慣れた仕草。顔はガラスに描かれた絵に隠れて一部しか見えなかったけど、雰囲気がそっくり。大学の時に付き合っていた、あの人に。
「どうした? 知り合いでもいたのか」
「あ、いえ。見間違いだと思います」
そう。あの人は遠いところにいる。好きだと言われて付き合って、深い関係も望まれたけど、応えられなかった。自分からは、キスさえしてあげたことがなかった。私なりに、好きになっていたつもりだったんだけどな……。
一輝さんの手が伸びてきて、私の頬をくすぐった。
「よほど腹が減ったとみえる。しょげた顔をしてるぞ」
「ふふ、お腹は空いてますよ。そうだ、リクエスト! さっき考えたのに飛んじゃって」
「多分これだろうという店に向かってる」
「エスパーですか」
「対・灯里限定のな」
「嘘ばっかり」
「俺にもポンコツな部分はある」
軽口の中に混じる、デリケートな本音。これが多くの女性の心を鷲掴みにするんだよね。計算してるわけでもないらしいのが厄介。地球上の全女性を虜にする日も近い。
「愛すべきポンコツなら……いいんじゃないでしょうか」
この先は郊外だなあと景色を眺めながら、夢見るように言葉が零れた。うん、夢。一時の夢。人生が電車の駅みたいに区切りがあるとしたら、私は途中下車した駅から豊宮快速に乗ったところ。スピードを上げた列車は、いずれ必ずどこかに到着する。一輝さんは旅の道連れではなく、背中しか見えない運転士さんで、次の駅で誰かと交替……お別れ。それまでの間、迷惑をかけない乗客でいたいなって思う。一時の出会いでもその区間は一緒にいい旅をしたね、って……彼の心の片隅にでも、残るといいな。
コホンッ
隣から、咳払いの音。ん?と見ると、彼はややスピードを落とし、視線を泳がせていた。
「どうかしました?」
「うん……いや。婚約者らしいセリフが出るようになったな、と……」
「今のがですか?」
「自覚がないのか」
「自覚がないのは、私じゃなくて……え?」
彼はもうひとつ咳払い。ハンドルから一瞬片手を離して、握り直した。どことなく挙動不審。
……照れてる?