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第1章第18話

 にっこりというか、にんまりというか。いたずらが成功した子供の顔だ。昨日の夜、助手席を守るように車の外に立っていた静かな後ろ姿とは、別人に思えてくる。問題は、こっちの顔が、かわいくて仕方なくなってきている私の方。八歳違いの彼が、年下に感じられてしまう。

「仕方ないですね……」

 はらりと零れた髪を直してあげると、彼も私の髪を整えてくれた。

「よく我慢したと褒めてくれ」

 ぐっ。こ、この人はっ。契約期間中、毎日こんなやり取りが続くんだろうか。褒めないと車は発進しない。私の夕食も始まらない。そういう人だ。

「……一輝さんは、偉いですね」

「何が」

「我慢したことです。よくできました」

 なぜ褒めないといけないのか、全然わからないけど! 頭に軽く触れて、よしよしと撫でることまでしてみた。社員が社長にって……あり得ない。

「うん」

 一連の行為に満たされたらしい彼は、チュッと私のおでこにキスをして、運転の体勢に戻った。何事もなかったかのように車が動き始める。一輝さんはというと、エネルギー満タン!という感じでキラキラしてる。偽装婚約者とのキスがそんなに嬉しいのかな。不可解な人。

 不可解なのは、私もだ。離れた途端、寂しいなんて。

 窓の外を、街が流れていく。温かみのあるライトで照らされた店先。バレンタインフェアで賑わうデパート。十四日が平日のせいか、祝日の今日が特別なデートになったらしいカップルの姿もちらほら。肩を抱かれて幸せそうな女性もいれば、お互いまだ緊張して、来たるべき瞬間を恐る恐る待っている、そんな二人もいる。

 私と一輝さんは、どう見えるんだろう?

 スマートな運転を楽しむ横顔。昨日の昼間、初めて会った時に圧倒されたオーラは、いたずらっ子の彼と無理なく同居して、車外にバンバン漏れている。通りすがる人が、息を飲む。彼は今日も無自覚に、ファンを増やし続けている。

 まさか、私が婚約者だなんて誰も思わないよね。信じてもらわないと彼の計画は成功しないから、それらしく振る舞うことは了承したものの。

 慣れた彼のペースに乗せられて、心地よくて。寒かった冬が、暖かな春へと向かっていく。初めて勤めた会社の退職は辛かったけど、一輝さんとの出会いで救われた。森戸社長の思いがわかったというのもあるし、一輝さんの優しさに慰められているというのもある。

 年下の男の子みたいな、年上の人。契約期間中は甘えさせてもらって、次の人生を少しゆっくり考えてみようかな。

 彼は、私が考え事をしているのを遮らない。その間、興味なさそうにしているんじゃなくて、ちょっぴり心配そうに視線を投げてくる。大丈夫ですよ、泣いてません。安心させたくて微笑むと、同じ熱量の笑みが返ってくる。

「一輝さん、選んだのが私でよかったですよね……」

 心の声が、思わず外に出た。

「自信が出てきたか? いい傾向だ」

「そういうわけでもないんですけど」

 彼の勘違いはそのままにして、心の中で思いっきり叫ぶ。契約したのが私じゃなかったら、本気にされて後戻りできなくなってますからね!? 契約終了しても女性の方は諦められなくて、後ろから刺されるかもしれない。防弾チョッキが必要なのは彼の方だ。

「……あれ?」

 次は何を言い出すのかと楽しそうに私を見ている彼の向こう……今、通り過ぎたビルの窓際。カフェの喫煙席。見慣れた仕草。顔はガラスに描かれた絵に隠れて一部しか見えなかったけど、雰囲気がそっくり。大学の時に付き合っていた、あの人に。

「どうした? 知り合いでもいたのか」

「あ、いえ。見間違いだと思います」

 そう。あの人は遠いところにいる。好きだと言われて付き合って、深い関係も望まれたけど、応えられなかった。自分からは、キスさえしてあげたことがなかった。私なりに、好きになっていたつもりだったんだけどな……。

 一輝さんの手が伸びてきて、私の頬をくすぐった。

「よほど腹が減ったとみえる。しょげた顔をしてるぞ」

「ふふ、お腹は空いてますよ。そうだ、リクエスト! さっき考えたのに飛んじゃって」

「多分これだろうという店に向かってる」

「エスパーですか」

「対・灯里限定のな」

「嘘ばっかり」

「俺にもポンコツな部分はある」

 軽口の中に混じる、デリケートな本音。これが多くの女性の心を鷲掴みにするんだよね。計算してるわけでもないらしいのが厄介。地球上の全女性を虜にする日も近い。

「愛すべきポンコツなら……いいんじゃないでしょうか」

 この先は郊外だなあと景色を眺めながら、夢見るように言葉が零れた。うん、夢。一時の夢。人生が電車の駅みたいに区切りがあるとしたら、私は途中下車した駅から豊宮快速に乗ったところ。スピードを上げた列車は、いずれ必ずどこかに到着する。一輝さんは旅の道連れではなく、背中しか見えない運転士さんで、次の駅で誰かと交替……お別れ。それまでの間、迷惑をかけない乗客でいたいなって思う。一時の出会いでもその区間は一緒にいい旅をしたね、って……彼の心の片隅にでも、残るといいな。

 コホンッ

 隣から、咳払いの音。ん?と見ると、彼はややスピードを落とし、視線を泳がせていた。

「どうかしました?」

「うん……いや。婚約者らしいセリフが出るようになったな、と……」

「今のがですか?」

「自覚がないのか」

「自覚がないのは、私じゃなくて……え?」

 彼はもうひとつ咳払い。ハンドルから一瞬片手を離して、握り直した。どことなく挙動不審。

 ……照れてる?



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