目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第1章第8話

 わずかな浮遊感で、我に返った。扉が開き、光が入ってくる。ショッピングモールのある一階に着いたんだ。

 泊まり客以外の人も入れる明るい空間は、昼間はとても賑わっているのだと思う。今はまだ早いから、カフェで朝食をとっている人がちらほら。それでも、ほとんどのお店は開いていて、入ってみたくなるかわいい雑貨屋さんや、本屋さん、ドラッグストアなどが見えた。ゆったりと歩く社長についていくと、お医者さんが集まっている一角もあった。

「大抵のものは揃う。好みはあるだろうが……約束を守れるなら、たまにはここへ来るのもいいだろう。営業時間は通常の店舗よりも長い。泊まり客の利便を考慮してな」

 優しい口調は、光と手を取って踊っているかのよう。買い物に来ていいぞって言ってくれているんだ。

「ありがとうございます。あのお店、好きなんです。あ、あそこも」

「そうか」

 微笑む社長は、噂されているという黒い影を微塵も感じさせない。「約束」の中身は、何となくわかった。

「一緒に来てくださるっていうことで、合ってます?」

「正解だ。俺から離れるな。それがただひとつの条件だ」

「ふふ、わかりました」

 彼は嬉しそう。ふと、手を繋いであげたくなった。契約だからなのか、駄々っ子なのか、「離れるな」と言うこの人を、つかまえていてあげたい。そんなの言い出せなくて、手を伸ばすこともできないけれど。気になるお店の営業時間を確認して歩きながら、時々、彼を見上げてみた。名前の通り、輝くばかりの笑顔が返ってくる。

 突然の出会いから一夜明けて、少しずつほどけていくものがある。固い梅の蕾も時期が来れば自然と開くように、私の季節も変わり始めている。


 一階から地下一階には、エスカレータで下りた。絵を見るのが好きだから画廊も気になるし、ミニシアターでは、何と大好きな監督の映画が間もなく公開! バレンタインの夜からだ。ポスターを見て叫んでしまった。

「来たんだー!」

 ロマンチックで、深く心に残る映画を撮る人。三年前から話題に上っていた、久しぶりの新作。ここのところバタバタしていて、チェックしてなかった。ポスターの文字をなぞる。キャストもスタッフも最高。

「ああ、ようやく日本公開になると映画雑誌で紹介されていたな」

 社長は、私も読んでいる雑誌のタイトルを挙げた。

「その号、買い忘れた……」

 考えてみたら去年の後半から、前の会社の先行きが不安で、娯楽を遠ざけて過ごしていた。

 ぽんぽん、と頭に手を置いて慰められる。

「今度見せてやる。インタビューが三頁もあるぞ」

「ほんとですか!?」

 忙しい人だから、雑誌は電子で済ませていても不思議はないのに。それを言ってみると、「ものによる」という答えだった。

「映画は特別だ。あの、ずっしりした紙の本がいい」

「写真が多いから、重いんですよね」

 住む世界が違うと思っていたのに、意外なところで話が合った。

「俺はもともと初日にここへ観に来る予定だったが、仲間ができたな」

「私ですか?」

「ああ。観るだろ?」

「観ます!」

「よし、決まりだ」

 上映時間をメモしてその場を離れてからも、映画の話が続いた。特に、私が初めて観たこの監督の作品について、大いに盛り上がった。

「母と、古典文学を題材にした作品を観に行った時に、チラシで知ったんです。隅っこに小さく、ほんっとに小さく写真が載っていて。あらすじもありませんでした。短いキャッチコピーとヒロインの表情が、その日からずっと忘れられなくて」

「確かに。あれで売る気があるのかと、ファンとしてはまじめに心配したんだが」

「結果、大ヒットでしたよね」

「ああ。宣伝手段について考えさせられた。俺がちょうど、社長に就任した年だった」

「そうなんですね……」

 私は高校二年だった。次の年、弟の星吾が消息を断った。私も社長も、激動の時期だったんだ。あの頃、星吾が何を考えているか、想像してみたこともなかったな……。

「ん?」

 静かに見下ろす彼は、私の心はお見通しなんだと思う。だって、とても優しい顔をしてる。

「三日後、楽しみですね」

「ああ」

 にっこりと微笑み合う。頭の中に専任秘書としてのメモ帳を作り、昨日から今までに聞いた彼の好きなものを書き込んだ。


「灯里」

「はい」

 駐車場へ出られる階段の上で、名前を呼ばれた。

「下は寒い。コートを着た方がいい」

「あ、そうですね」

「先に行く。車を暖めておくからゆっくりでいい。走るなよ」

 彼は車の場所を教え(昨日はホテルの人に車を預けていたから)、華麗な足取りで下りていった。

「走るなって、子供じゃないんだから」

 くすぐったい気持ちでコートを着て、思い出した。右のポケットに入れていたんだ。昨日、泣いた時に借りたハンカチ。洗って返さないといけない。

 ポケットの上からそっと押さえてみた。

「……ん?」

 ほかにも何か入ってる?

「入れた覚え、ないけど……」

 手を入れてみると、薄い包みに触れた。深くて大きなポケットに、秘密の宝物みたいに隠れてる。隠したのは、あの人しかいない。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?