わずかな浮遊感で、我に返った。扉が開き、光が入ってくる。ショッピングモールのある一階に着いたんだ。
泊まり客以外の人も入れる明るい空間は、昼間はとても賑わっているのだと思う。今はまだ早いから、カフェで朝食をとっている人がちらほら。それでも、ほとんどのお店は開いていて、入ってみたくなるかわいい雑貨屋さんや、本屋さん、ドラッグストアなどが見えた。ゆったりと歩く社長についていくと、お医者さんが集まっている一角もあった。
「大抵のものは揃う。好みはあるだろうが……約束を守れるなら、たまにはここへ来るのもいいだろう。営業時間は通常の店舗よりも長い。泊まり客の利便を考慮してな」
優しい口調は、光と手を取って踊っているかのよう。買い物に来ていいぞって言ってくれているんだ。
「ありがとうございます。あのお店、好きなんです。あ、あそこも」
「そうか」
微笑む社長は、噂されているという黒い影を微塵も感じさせない。「約束」の中身は、何となくわかった。
「一緒に来てくださるっていうことで、合ってます?」
「正解だ。俺から離れるな。それがただひとつの条件だ」
「ふふ、わかりました」
彼は嬉しそう。ふと、手を繋いであげたくなった。契約だからなのか、駄々っ子なのか、「離れるな」と言うこの人を、つかまえていてあげたい。そんなの言い出せなくて、手を伸ばすこともできないけれど。気になるお店の営業時間を確認して歩きながら、時々、彼を見上げてみた。名前の通り、輝くばかりの笑顔が返ってくる。
突然の出会いから一夜明けて、少しずつほどけていくものがある。固い梅の蕾も時期が来れば自然と開くように、私の季節も変わり始めている。
一階から地下一階には、エスカレータで下りた。絵を見るのが好きだから画廊も気になるし、ミニシアターでは、何と大好きな監督の映画が間もなく公開! バレンタインの夜からだ。ポスターを見て叫んでしまった。
「来たんだー!」
ロマンチックで、深く心に残る映画を撮る人。三年前から話題に上っていた、久しぶりの新作。ここのところバタバタしていて、チェックしてなかった。ポスターの文字をなぞる。キャストもスタッフも最高。
「ああ、ようやく日本公開になると映画雑誌で紹介されていたな」
社長は、私も読んでいる雑誌のタイトルを挙げた。
「その号、買い忘れた……」
考えてみたら去年の後半から、前の会社の先行きが不安で、娯楽を遠ざけて過ごしていた。
ぽんぽん、と頭に手を置いて慰められる。
「今度見せてやる。インタビューが三頁もあるぞ」
「ほんとですか!?」
忙しい人だから、雑誌は電子で済ませていても不思議はないのに。それを言ってみると、「ものによる」という答えだった。
「映画は特別だ。あの、ずっしりした紙の本がいい」
「写真が多いから、重いんですよね」
住む世界が違うと思っていたのに、意外なところで話が合った。
「俺はもともと初日にここへ観に来る予定だったが、仲間ができたな」
「私ですか?」
「ああ。観るだろ?」
「観ます!」
「よし、決まりだ」
上映時間をメモしてその場を離れてからも、映画の話が続いた。特に、私が初めて観たこの監督の作品について、大いに盛り上がった。
「母と、古典文学を題材にした作品を観に行った時に、チラシで知ったんです。隅っこに小さく、ほんっとに小さく写真が載っていて。あらすじもありませんでした。短いキャッチコピーとヒロインの表情が、その日からずっと忘れられなくて」
「確かに。あれで売る気があるのかと、ファンとしてはまじめに心配したんだが」
「結果、大ヒットでしたよね」
「ああ。宣伝手段について考えさせられた。俺がちょうど、社長に就任した年だった」
「そうなんですね……」
私は高校二年だった。次の年、弟の星吾が消息を断った。私も社長も、激動の時期だったんだ。あの頃、星吾が何を考えているか、想像してみたこともなかったな……。
「ん?」
静かに見下ろす彼は、私の心はお見通しなんだと思う。だって、とても優しい顔をしてる。
「三日後、楽しみですね」
「ああ」
にっこりと微笑み合う。頭の中に専任秘書としてのメモ帳を作り、昨日から今までに聞いた彼の好きなものを書き込んだ。
「灯里」
「はい」
駐車場へ出られる階段の上で、名前を呼ばれた。
「下は寒い。コートを着た方がいい」
「あ、そうですね」
「先に行く。車を暖めておくからゆっくりでいい。走るなよ」
彼は車の場所を教え(昨日はホテルの人に車を預けていたから)、華麗な足取りで下りていった。
「走るなって、子供じゃないんだから」
くすぐったい気持ちでコートを着て、思い出した。右のポケットに入れていたんだ。昨日、泣いた時に借りたハンカチ。洗って返さないといけない。
ポケットの上からそっと押さえてみた。
「……ん?」
ほかにも何か入ってる?
「入れた覚え、ないけど……」
手を入れてみると、薄い包みに触れた。深くて大きなポケットに、秘密の宝物みたいに隠れてる。隠したのは、あの人しかいない。