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第1章第7話

 気になったけど、一日中朝食の席で話しているわけにもいかない。お料理も、濃厚なプチ・レアチーズケーキも完食して、部屋を出る準備をした。


「持ち出す荷物は最小限でいいぞ」

 隣室から、よく通る声が届く。

「社長はそうでしょうけど」

 アパートから通勤の私は、そうはいかない。通勤時間はそこそこ長くなるけど、この辺りまでなら通えるかなと想定していた圏内。長く勤められそうなら、時期を見てこっちに引っ越してもいい。幸太に、この辺のアパート情報を聞いてみようかな。

 私のささやかな計画は、社長のひと言で吹っ飛んだ。

「スケジュールが詰まっていてな。しばらくは俺と、ここで暮らしてもらう」

「は?」

 この、アパートの部屋が何個入るんだろうっていうスイートで? 私の実家の部屋が全部入っちゃいそうな広大な空間で? ……初めての夜と初めての朝を経験した、ここで。その原因となった人と、暮らすって。

 乱れたシーツが目に飛び込んできた。慌てて、選んだバッグを持って寝室を出た。リビングは、これはこれで心臓に悪いんだけど。

「足りないものをリストアップしてくれ。手配する。一度に全部でなくてもいい」

 ネクタイを締める仕草にクラっときて、いかにもお金持ちなそのセリフを聞き逃しそうになった。

「子供じゃないんですから。お店を調べて、自分で揃えられます」

 そもそも、至れり尽くせりで、今のところ何の不足も感じていない。非常によくない状況。これに慣れちゃいけない。お給料日が来れば、ひと息つけるしね。

「おそらく、そんな暇はない」

「……なぜですか」

 聞いても無駄。覆ることがないという意味では。だからって、彼の言うことに何の疑問もなく従っていては、専任秘書は務まらない。

「俺が離さないからな」

「は……」

 離さない、って。束縛。拘束。……監禁? いやいやいや、そっちじゃない。また思考が変な方へ行く。

「ひとつ確認だが」

 最高級の背広の上着を纏い、距離を詰めてきた。目が、怖い。後ずさると、彼はその分だけ前へ出てくる。壁にぴったり背をつければ、それ以上逃げ場はない。年中転がり込んでいるだけあって予備が置いてあるから、彼のネクタイは昨日と違う。目のやり場に困って、キラリと光るタイピンを見つめた。

「俺との関係は、理解してるんだよな?」

 いえ、全然。理解不能です。わかってほしかったら順序立てて説明する癖をつけた方がいいです。

 と言ったら、事態が悪化する気がした。

「秘書、ですよね? 専任の」

 ずいっと迫ってくる秀麗な顔。

「そうだ。俺だけのな。それから?」

 え、ほかに何かあるの? 

 首を傾げると、彼は怯んだように見えた。この人に限って、あり得ないけど。

 肩にかかって乱れた髪を、優しく直してくれる手。昨夜と同じで、どこか私に縋るようで……。

「……矢崎のことだが」

 真夜さん? 

「まだ……ネタがあるんですか」

 声が小さくなる。彼は何を言おうとしてるんだろう。

「ふたつな」

「それ、今言わないと駄目なんですか」

 聞きたいような、聞きたくないような。

「ひとつは……まあ、あとでもいい」

「ふたつ目は?」

 さっき社長がまくし立てた内容を思い浮かべる。あれ以外っていうと……?

 彼は綺麗な瞳を泣きそうに歪め、私を両手で抱き寄せた。

「んっ」

 触れる唇は、もうお互いの形を覚えてる。時間が止まったように感じるのに、鼓動は速い。矛盾してる……。落ちない口紅でよかった……。

 いやいや、そうじゃなくて。真夜さんの話じゃなかったの!?

 温もりが離れていく。社長は、ぷるぷる震える私の頭を撫でた。

「あいつは婚約者でもない。絶対にな」

 そういえば、列挙された中にフィアンセは入ってなかった。小さな男の子が人生を賭けた宣言をするみたいに真剣だから、笑うことはできない。

「……わかりました」


 カードキーは社長が持って、二人で廊下へ出る。昨夜は眠っていたから、部屋の外を見るのは初めて。本当に、このフロアには一室だけなんだ。最上階で、夢のような時間。それはまだ「しばらく」続くらしい。

「フロントにもう一枚、カードキーを頼んでおいた。今夜戻った時に受け取ればいい」

「はい」

 今夜、一緒に戻ってくる。離さないと言われたからには、今日も同じベッドなんだろうか。頬が熱くなるのを精神統一して抑えようとしていると、エレベーターを待ちながら無言で見下ろされた。

「何ですか?」

「いや……」

 どこか変かな。出る前に最終チェックしたし、バッグも、昨日着て気に入ったから持ってきたコートも、この服に合ってると思うんだけど。ちなみに、コートはほかに五枚も届いていた。

 小さな電子音と共にエレベーターが着き、扉が開く。案内図を見ると、フロントは昨日入ったバーと同じ二階にある。駐車場は地下二階。一階と地下一階はショッピングモールで、カフェやレストラン、画廊にミニシアターまで入ってる。社長は、一階のボタンを押した。

「駐車場じゃないんですか?」

「ああ」

 彼はまた、私をじーっと見下ろした。身長差があるから仕方ないんだけど、視線が意味ありげで、でもこの人のことだから普通に意味を推し量ろうとしても正解は難しい。背後の鏡をちらりと覗いて確認した。うん、変なところは別にないよね。私はね。社長は……変。じーっと見上げると、ごまかすように階数表示を見た。

 とても静かなエレベーターで、世界中に二人だけしかいないんじゃないかって思えてくる。見上げて、見下ろされて。コートを抱えているにもかかわらず、私は、外が冷たい冬であることを忘れていた。



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