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第1章第6話

 さんさんと日が差し込むスイートルームのリビングで、カーテンを閉めた方がいいんじゃないかって言いたくなる行為。いかがわしいんだけど、どこか、動物の親が子供の毛づくろいをしてあげるのにも似ている。

 名前を付けられない甘い仕草を中断させたのは、とうとう我慢できなくなった私のお腹だった。グゥグゥと、盛大に主張している。

「ハハッ、健康的だ」

「お腹ペコペコで倒れそうです」

「悪かった。かわいすぎて、つい」

「人のせいにしないでください」

 かわいい、がどこから来ているのか、空腹でまわらない頭で考えそうになって、やめた。純粋な誉め言葉なのか。愛玩動物扱いなのか。

 腰を支えてもらいながら、また落ちないように慎重に降りる。ずれたスカーフを直すと、「暑くなったら外していいぞ。それがなくても、誰もが振り返るいい女だ」とからかわれた。

「知りませんっ」

 グゥグゥ

 緊急事態を訴えるお腹と社長の明るい笑い声が、合唱した。


 始まった朝食は、パンもバターも、卵も野菜も、飛び上がるほどおいしかった。具だくさんのミネストローネは、酸味と野菜の甘味のハーモニーが絶妙で、お代わりしてしまった。

「朝からこんなに食べるの、久しぶりです。おいしいです」

「空腹にしておいてよかっただろう?」

「またそういう……」

 呆れ半分、おいしいご飯と穏やかな時間への感謝半分で、微笑んだ。手を温めてくれるのは、ロイヤルミルクティーの入ったカップ。

「これ、もしかして……私のために?」

 二人ともコーヒーにすることもできたはず。

「昨日まわってきたデータにあった。好物だと」

「どこまで詳しいんですかそのデータ」

「企業秘密だ」

「私のことなんですけど」

 子供のような会話。クスクス笑って、お腹も心も満たされていく。昇っていく日の光だけじゃない。部屋の明かりだけでもない。私の内面に、ポッと灯ったものがある。

 まるで何年も前から一緒に食卓を囲んできたみたいだな。

 とんでもない方へ思考が飛んで、ミルクティーの甘さにも気が緩んだ。気付いたら、彼女の名前を出していた。

「真夜さんて、素敵な方ですね」

 あ、と思った時は遅かった。彼女のことは、プライベートに関わるかもしれないのに。カップを置き、姿勢を正した。社長は山盛りのハムを平らげ、フォークを置いたところ。

「仕事はできる」

 ほかは苦手だと言わんばかりに、眉を上げた。それがかえって、気安い関係なのだと確信させる。急に話題を変えるのも不自然。素敵だと感じる理由を伝えることにした。

「選んでくださるの、どれも、自分で自分を好きになれる服だなって」

「そうか。直接言ってやれ。喜ぶぞ」 

 優しい眼差し。彼女と二人だけの時には、そういう目を向けるんだろうか。……この席に、座ることも? あのシャワー室を使ったり……あのベッドも?

 カップを両手で包み、暴走する想像を止めようとした。おかしいよ、私。だったら何だっていうの。立ち入ったこと。真夜さんにも失礼だ。

「天国から地獄だな」

「……え?」

「一瞬前は、体全体から光が滲み出してた。今は、雷雲を頭に乗せているように見える」

「う……」

 顔に出てた。私、表情がわかりにくいってずっと言われてきたのに。彼はどうしてわかっちゃうんだろう。大きな事業を長くやって、人をたくさん見ているから、鋭いのかな。幸太も、社長は人を見抜くんだって言ってた。

「気がかりがあるんだろ? 言ってみろ。今日の仕事のことか」

 ……前言撤回。この流れで、何でそうなるかな。もしかして、ある方面には壊滅的に鈍いタイプ?

「仕事のことではないんですけど、いいですか」

 再び、カップをテーブルに置いた。彼は頷き、私に合わせて姿勢を正した。

 言うのよ、灯里。今聞くのも、あとから知るのも同じ。

 口の中が渇いてくる。緊張してる。そっとスカートの生地を撫でた。社長の答えが予想通りだとしても、彼女のことは好きでいたい。

「真夜さんて」

 そこまでしか、言えなかった。身を乗り出す勢いで、社長がまくし立てたから。

「妻でも恋人でも姉でも妹でも、おばでもいとこでもないぞ」

「……はぁ」

 おばさんて。そこまで否定してくるとは。

「もうひとつ。元カノでもない」

「はい。よくわかりました」

 大体察した。頭が上がらない友人というところかな。

「あとは、あれだ。母親でも祖母でも孫でもない」

「もういいですって」

 お行儀はよくないけど、お腹を抱えて笑うしかなかった。

「それとな」

「も、もう、そこまでで……苦しい……」

 これほど笑ったのは何年ぶりだろう。心の奥に封をしてしまい込んでいた、笑いの種。それは袋に入っていて、袋の口には紐がぐるぐる巻かれ、きつく結ばれていた。その戒めが解かれ、パァッと種が蒔かれた。そんな、幸福な幻想が浮かぶ。

 社長は手を伸ばし、私のカップに紅茶を足してくれた。寛いでる。私が共に食卓を囲むのを、喜んでくれている。

「ありがとうございます」

 お礼を言って、砂糖を入れ、ひと口飲んだ。もうひと口、と思った時、彼は何かを言いかけて、引っ込めた。




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