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第1章第5話

 シャワー室は濡れた跡がなく、清掃後そのままといった印象を受けた。まるまるワンフロアありそうな部屋だから、社長が使ったシャワーは別のところにあるのかもしれない。

 真夜さんのお店の手提げ袋には、服や、それに合うバッグや靴、アクセサリーなどが何セットも入っていた。

「感覚が麻痺しそう……」

 ほかにもうひと袋あって、それには昨夜のドレスや靴が、ケースに入って綺麗におさめられていた。取っ手のところに、メモが留めてある。

『昨夜のドレス一式は、これに入れて持ち帰ってね』

「……社長が?」

 私は入れていないから、彼しかいない。

「それで、ベッドの下になかったんだ」

 独り言を漏らして想像する。うーん、マメな人なのかな? いやいや、違う。慣れてるだけ。こんなの、日常茶飯事なんだろう。

 今日着るものは、シャンパンゴールドのボタンがアクセントになっている、淡い色のツーピースを選んだ。私の髪と肌の色を引き立ててくれる。デザインは、自然に体に沿って着やすい上に、身につけるだけでスタイルが決まる。それでいて、まるで何も着ていないような身軽さ。生地の手触りも素晴らしい。

 一緒に入っていたメイクセットには、ハートマーク付きのメッセージカード。

『似合うと思うの。試してみて』

 リボンがかわいい小さな包みを開けてみると、一昨日から流れ始めたコマーシャルで、いいなと気になっていたルージュだった。

「真夜さんて、何者なんだろう」

 社長の愛人? 実は奥さん? お尻に敷かれてる感じがしたけど。

 鏡の中の私が答えを知っているわけもなく、新しい色をさした彼女は複雑な笑顔を作った。

「私にとっては魔法使いかな」

 髪は、一部だけ緩くまとめた。いつになく楽しい着替えの時間。真夜さんの魔法が気持ちにも作用して、綺麗になるための工夫にワクワクしてくる。

 最後は、姿見でチェック。うん、上出来。……あれ?

「今、何か赤いものが……」

 首を捻って後ろをよく見ると、とんでもないものがついていた。私の肌に。隠れるかどうか怪しい、とっても微妙な位置に。

「勘弁してよ……」

 これが噂のキスマーク。気付かなかったらどうするつもりだったのよっ。

 数秒、脱力。声に出して叫ぶと社長がおもしろがって入ってきそうだから、心の叫びで我慢した。ごそごそと魔法の衣装セットを探ると、合わせやすそうな大判のスカーフが見つかった。いろんな色が入っているから、どんな服にも使えそう。ここを特に隠したいから、こうやって……うん、見えない。

「よし」

 脱力した分を取り戻すように軽く気合を入れた。再就職二日目、頑張らないとね。


 リビングへ行くと、朝食のワゴンが届いていた。洋食中心のメニュー。社長はコーヒーを飲んでいる。様になるなあ。映画俳優みたい。

「いい色だな」

「ありがとうございます。素敵ですよね、デザインも生地も」

 さり気なく自分の席へ着こうとすると、座ったままの彼に引き寄せられた。あっさりと、膝に乗り上げてしまう。

「服もいいが……こっちの話だ」

 流れるように、整った顔が接近してくる。待ってよー!

「あ、あのですね」

 降りようとして後ずさると、抱え直された。そうじゃないってば!

「今は言葉はいらない」

 息がかかる距離まで来てしまった。

「えっと、すぐ行動ではなくて、言葉で表してくださった方が、その……嬉しい時もあるというか……きゃっ」

「おっと。よほど落ちるのが好きなようだ」

 変な格好で床に激突しかけたのを、引っ張り上げてもらった。

「危なかった……」

 社長の肩に身を預けて、さっきとは別の意味で脱力した。よしよしと背を撫でる手が満足そうなのは、私を捕獲できたからだろうか。

「落ちるのが好きなわけ、ないじゃないですか……」

 声に力が入らない。何だろうなあ、絶大な安心感。言葉を交わすたび、触れ合うたび、もっと大きく、深くなる。お腹減ってるけど、もうちょっとこうしていたい。

 動物の子が親に甘える写真を自分に重ねて思い出していると、スカーフの中の問題の場所に、すっと指が入ってきた。

「ひゃっ」

 変な声を上げてしまい、口を押さえる。ちょっと……あの……なぞらないでよ……。

「このスカーフもいいな」

 ニヤリとした意味。憎らしいけど憎めない。何も言えなくなる。抗議しないと駄目だよ、灯里。誰のせいですかっとか、キスマークは禁止ですからっとか。うーん、それだと「見えなければいいんだろう?」「キス自体は禁止されてないよな」って言い出しそう。

 変だ、私。昨日から、脳内で社長が勝手に喋ってる。浮かんでくるセリフに呆れたり警戒したり。それは、不快なことじゃない。一度肌を許すとこういうものなの? それなら今朝からの現象になるわけで、昨日からあったことだし……。

 指は前の方へ移動してきて、顎の下をくすぐり始めた。ん、と声が出そうになるのを、抱き着いて堪える。指は諦めずに耳の後ろへ……。

「社長ってよくわかりません……」

 意地悪なのか、無類の女好きなのか、それとも……ただ単に、底抜けにかわいい人なのか。

「よく言われる」

 自慢気な口調は子供みたいで、笑ってしまった。







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