シャワー室は濡れた跡がなく、清掃後そのままといった印象を受けた。まるまるワンフロアありそうな部屋だから、社長が使ったシャワーは別のところにあるのかもしれない。
真夜さんのお店の手提げ袋には、服や、それに合うバッグや靴、アクセサリーなどが何セットも入っていた。
「感覚が麻痺しそう……」
ほかにもうひと袋あって、それには昨夜のドレスや靴が、ケースに入って綺麗におさめられていた。取っ手のところに、メモが留めてある。
『昨夜のドレス一式は、これに入れて持ち帰ってね』
「……社長が?」
私は入れていないから、彼しかいない。
「それで、ベッドの下になかったんだ」
独り言を漏らして想像する。うーん、マメな人なのかな? いやいや、違う。慣れてるだけ。こんなの、日常茶飯事なんだろう。
今日着るものは、シャンパンゴールドのボタンがアクセントになっている、淡い色のツーピースを選んだ。私の髪と肌の色を引き立ててくれる。デザインは、自然に体に沿って着やすい上に、身につけるだけでスタイルが決まる。それでいて、まるで何も着ていないような身軽さ。生地の手触りも素晴らしい。
一緒に入っていたメイクセットには、ハートマーク付きのメッセージカード。
『似合うと思うの。試してみて』
リボンがかわいい小さな包みを開けてみると、一昨日から流れ始めたコマーシャルで、いいなと気になっていたルージュだった。
「真夜さんて、何者なんだろう」
社長の愛人? 実は奥さん? お尻に敷かれてる感じがしたけど。
鏡の中の私が答えを知っているわけもなく、新しい色をさした彼女は複雑な笑顔を作った。
「私にとっては魔法使いかな」
髪は、一部だけ緩くまとめた。いつになく楽しい着替えの時間。真夜さんの魔法が気持ちにも作用して、綺麗になるための工夫にワクワクしてくる。
最後は、姿見でチェック。うん、上出来。……あれ?
「今、何か赤いものが……」
首を捻って後ろをよく見ると、とんでもないものがついていた。私の肌に。隠れるかどうか怪しい、とっても微妙な位置に。
「勘弁してよ……」
これが噂のキスマーク。気付かなかったらどうするつもりだったのよっ。
数秒、脱力。声に出して叫ぶと社長がおもしろがって入ってきそうだから、心の叫びで我慢した。ごそごそと魔法の衣装セットを探ると、合わせやすそうな大判のスカーフが見つかった。いろんな色が入っているから、どんな服にも使えそう。ここを特に隠したいから、こうやって……うん、見えない。
「よし」
脱力した分を取り戻すように軽く気合を入れた。再就職二日目、頑張らないとね。
リビングへ行くと、朝食のワゴンが届いていた。洋食中心のメニュー。社長はコーヒーを飲んでいる。様になるなあ。映画俳優みたい。
「いい色だな」
「ありがとうございます。素敵ですよね、デザインも生地も」
さり気なく自分の席へ着こうとすると、座ったままの彼に引き寄せられた。あっさりと、膝に乗り上げてしまう。
「服もいいが……こっちの話だ」
流れるように、整った顔が接近してくる。待ってよー!
「あ、あのですね」
降りようとして後ずさると、抱え直された。そうじゃないってば!
「今は言葉はいらない」
息がかかる距離まで来てしまった。
「えっと、すぐ行動ではなくて、言葉で表してくださった方が、その……嬉しい時もあるというか……きゃっ」
「おっと。よほど落ちるのが好きなようだ」
変な格好で床に激突しかけたのを、引っ張り上げてもらった。
「危なかった……」
社長の肩に身を預けて、さっきとは別の意味で脱力した。よしよしと背を撫でる手が満足そうなのは、私を捕獲できたからだろうか。
「落ちるのが好きなわけ、ないじゃないですか……」
声に力が入らない。何だろうなあ、絶大な安心感。言葉を交わすたび、触れ合うたび、もっと大きく、深くなる。お腹減ってるけど、もうちょっとこうしていたい。
動物の子が親に甘える写真を自分に重ねて思い出していると、スカーフの中の問題の場所に、すっと指が入ってきた。
「ひゃっ」
変な声を上げてしまい、口を押さえる。ちょっと……あの……なぞらないでよ……。
「このスカーフもいいな」
ニヤリとした意味。憎らしいけど憎めない。何も言えなくなる。抗議しないと駄目だよ、灯里。誰のせいですかっとか、キスマークは禁止ですからっとか。うーん、それだと「見えなければいいんだろう?」「キス自体は禁止されてないよな」って言い出しそう。
変だ、私。昨日から、脳内で社長が勝手に喋ってる。浮かんでくるセリフに呆れたり警戒したり。それは、不快なことじゃない。一度肌を許すとこういうものなの? それなら今朝からの現象になるわけで、昨日からあったことだし……。
指は前の方へ移動してきて、顎の下をくすぐり始めた。ん、と声が出そうになるのを、抱き着いて堪える。指は諦めずに耳の後ろへ……。
「社長ってよくわかりません……」
意地悪なのか、無類の女好きなのか、それとも……ただ単に、底抜けにかわいい人なのか。
「よく言われる」
自慢気な口調は子供みたいで、笑ってしまった。