目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第1章第4話

 髪を撫でる手の感触で、目が覚めた。

 位置から考えて、彼は私の前にいる。ベッドの縁に腰を下ろして。

 彼。豊宮一輝社長。世界に名を馳せるそのオーラは、ベッドの中でも変わらなかった。何もかも初めての私を自分のペースに乗せて、怖がらせずに最後まで導いた。

 ……恥ずかしい。

 何でそこにいるのよ!?

 ものすごく慣れてるあなたと違って、私は正真正銘、初めての朝なんですからねっ。

 心の叫びが聞こえるはずもないのに、ぴたっと手が止まった。クッと笑い声。いやな予感。

「起きてるよな?」

 起きてません。

「本物の寝顔は、昨日何度も見せてもらった」

 うっ。そうだった。迂闊にも、初対面のこの人の前で二度も無防備に眠り込んだ。車の中で泣いて、そのあとバーで。それから、その、そういうことになって……想像を超える体験のあとに「泊まるよな?」と囁かれれば、真っ赤になって頷くしかなかった。

「狸寝入りもかわいいが、そろそろ見せてくれないか。誰もが虜になる、生き生きとした表情を」

 ……え?

「そんなこと、初めて言われました」

 あ、起きちゃった! 起きてたけど! 

 思わず目を開けて、口まで開いて……私の馬鹿~!

「おはよう」

 額に下りてくる唇。息が止まる。ふわりと漂う石鹸の匂い。シャワーを浴びたんだ。私の体も、さっぱりしてる。違うのは、社長は、あとネクタイと上着があれば完璧なのに、私は布団のほか頼るものがないという点。次は唇だと、当たり前のように狙いを定めてくる社長の顔を、布団を引き上げて遮断した。

 キスを拒まれたのに、彼は怒る気配もない。クククッと、それはもう楽しそうに笑ってる。ぽんぽん、と布団を叩きながら。小さな子をあやしているみたい。

「体は辛くないか」

「はい……」

 普通はどうなのか知らないけど、どこも痛くないし、私は今とっても安心してる。ふわふわ、どこにも長居できずに漂って、冷めた目で見ていた世界に、居場所を見つけたような気持ち。もうちょっとだけ、ここで寝ていたいな。

 ただ、昨日までの私じゃないんだなっていう寂しさが、頭の隅を掠めた。

「今日は休んでもいいぞ。昨日、連れ回してしまったからな」

「秘書に甘すぎです……」

「ん? ああ……」

 この反応は奇妙に感じた。布団越しだから、表情は不明。……顔、見たいな。

 駄目だ。社長と話していると、どんどんおかしくなる。いつまでもこんなことしてられない。

「ところで、ですね」

「うん?」

「服を着たいんですけど」

 昨夜のドレスと靴では仕事には不向きだけど、あれを着るしかない。それでいったん、アパートに帰らせてもらおう。

 問題は、社長がどいてくれないと、脱がされた服一式に手を伸ばすこともできないこと。何でそういうの、察しないわけ!? 

「ああ、これは失礼」

 ほんとよ!? 

 からかうような口調も失礼だと文句を言ってやりたいけど、立ち上がってくれたからまあいい……あれ?

 布団から手を出して、床を探ってみたものの……ない。

 確かこの辺だったよね……もう少しこっち?

「何してる。落ちるぞ」

「きゃっ……」

 本当にずるっと落ちそうになったのを、たくましい腕に抱き止められた。おまけに、露わになりかけた体を、素早く背広の上着で隠してくれて……何から何まで慣れているなあ、もう。

「すみません……ありがとうございます」

「矢崎から着替えが届いてる。サイズは合うはずだ」

「真夜さんから?」

 目を走らせると、寝室のソファーの上に、彼女のお店の袋がいくつか見えた。「こっちの服は会社のロッカーに届くようにしておくわね」って、昨日のお昼まで着てたスーツを預かってくれたのも、今思えば謎。社長の行きつけのブティックの経営者とはいえ、一体どういう関係?

 着替える前に追及したものかと思案しかけた時、お腹の虫に妨げられた。また社長が笑う。

「腹の虫まで、かわいい声で鳴くんだな。……おっと、暴力はいけない」

 枕を投げようとした私を手で制して、次の間へ続くドアを開けた。向こうはリビングかな。この寝室も広いけど、その倍くらいありそう。

「あっ……あのっ」

 早く出ていってほしかったはずなのに、閉まりかけた扉に遮られていく背中に、呼びかけずにいられなかった。

「何だ?」

 振り返った顔の角度も、立ち姿も、甘やかすような低い声も、女性を勘違いさせる男ナンバーワンっていう感じ。だから、これだけは言っておきたい。

「……愛人扱いなら、お断りですから」

 昨夜のは、「お仕置き」。彼が作った勝手なルールだけど、理由はあった。いやな思いをしたわけでもない。深入りせず、いい思い出にして仕事を頑張りたい。

 彼は扉から手を離し、私に向き直った。真剣な目。それから、斜め上に視線を移して何かを考え、「ふむ」と一人で納得した。

「恋人ならいいって?」

 こっ……恋人!?

「そういう意味じゃありませんっ」

「ハハッ」

 何だろう、こうして話していると胸がくすぐったい。

「そっちのドアがシャワーだ。着替えが済んだら食事にしよう」

 今度こそ扉は閉まり、温かい余韻が残った。





この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?