パーティ会場にでも行くのかと思ったら、連れて行かれたのはクラシックのコンサートだった。開演時刻は十六時。ギリギリに着席し、温かみのある音に包まれていった。
音楽は好きで、子供の頃、家族と何度かオーケストラを聴きに行った。大人になってからは初めて。豊宮グループの中心人物が横にいて、自分自身もこんなに綺麗にしてもらって……何だか落ち着かない。よりによって目立つボックス席。客席のあちこちから視線を感じる。「あの女性は?」って品定めされているんだろうか。
社長は最初、時間を気にしていた。一曲目が終わる頃、入ってきた扉が開くかすかな音がした。背後のカーテンの隙間から、封筒が差し出される。彼はそれを受け取り、中身を確認してから、何かを走り書きして封筒ごと返した。この間、二十秒くらい。曲が終わり、割れるような拍手が沸き起こった。その音に紛れて、彼は私に耳打ちした。
「仕事は済んだ。一人で来るのも味気なくてな」
「スパイ映画みたいでした……」
「ハハッ」
周りに注目されて、私は一言返すのがやっと。二曲目が始まると、彼は時々優しい視線を送ってきた。会場に響き渡るのは、すすり泣きを誘うような甘い旋律。その音に乗せて、彼のひそやかな声が耳に吹き込まれていく。
「自分を完璧に見せようと思わなくていい。ここでは、何かを守ろうと背伸びをする必要はないんだ。俺がいる」
遠目には、恋人同士が愛を囁いているように見えるだろう。けれど私にとっては、心を見抜かれて……十八のあの日以来、初めて救われた瞬間だった。
あなたは、何かを知っているの? そうでないとしたら、なぜ私のことがわかるの?
たくさんの疑問符を頭に浮かべながらも、残りの曲をリラックスして楽しむことができた。
終演後は、指揮者のルイス・ベルガー氏、奥様のソフィアさんと引き合わされ、四人での晩餐。社長は車で来ているからとアルコールを断り、私もそうした。豪華な時間に眩暈を覚えながらも、落ち着いて過ごすことができた。夫妻は日本語を勉強中ということで、日本語の文法の質問攻めにあった。日本人でも難しい問いに答えようと苦心する私を、社長は楽しそうに眺めていた。
次はドイツの家に遊びに来てね、とご招待を受け、行けたら素敵ですねとお返事し、ホテルへ帰っていくお二人を見送った。
「俺たちはこっちだ」
「はい」
駐車場で車に乗り込み、行き先を言わず、聞かずに発進した。出会ってまだ数時間なのに、隣にこの人がいることに慣れてきている。
「さっきの言葉、ありがとうございました」
「うん?」
「何かを守ろうと背伸びしなくていい、っていう」
「ああ……」
彼はちらりと私を見て、話の続きを促した。
「弟が……行方不明なんです。二つ下で……私が高校生の時でした。書置きをして、それっきり」
「何て書いてあったんだ?」
「『いろいろ考えた結果です。もっとよく考えたいから世の中を見てきます』って」
「自分探しか……。連絡はなかったのか?」
「一度も」
「ふむ……」
「それ以来、私、変に頑張っちゃって。両親を守るのは自分なんだ、って」
一人で気負って生きてきた。その頑なな感じが、初対面の社長にも伝わっちゃったのかな。
「すみません、自分のことばかり喋ってしまって」
「変じゃない」
「え?」
彼は片手を伸ばし、私の手に重ねた。温かい。
「頑張ることに、変なことなんかひとつもないぞ」
「社長……」
やだ、泣きそう。止めようとしたけど間に合わない。じわっと涙が浮かんでくる。
目元に移動してきた長い指が、雫を受け止める。
「すみません……」
「謝らなくていい……それでいいんだ」
泣いてもいいの? 今だけ……今だけ、ね。
社長はポケットからハンカチを出し、「ほら」と渡してくれた。
「まだしばらくかかる。これがびしょ濡れになるまで泣いとけ」
「何ですかそれ……」
ベージュのお洒落なハンカチは、温かい人柄の彼に似合っている。受け取って涙を拭きながら、笑顔が浮かんだ。ああ、頭がすっきりしてきたな……不思議な人だなあ。
「洗ってお返ししますね」
「気にするな」
車内の空気も柔らかくなり、肩の力が抜けていく。手の中のハンカチがお守りみたいに思えて、そっと膝に置いた。
「何だか……今夜は、安心、しました……」
意識が遠のいていく。助手席でうたた寝なんて、したことないのにな……。「安心されても困るんだがな」って聞こえたような……?
目を覚ますと、暖房がかかった車の中に一人だった。彼は、まるで私を守るように、外で助手席側のドアに背を預けている。コンコン、と窓を叩くと、扉を開けてくれた。隣に立ち、景色を眺める。
海を見下ろせる、静かな公園の一角。橋の明かりが水面に映り、幻想的な光景を作り出している。空には半月。満月にはまだ遠い。その欠けたところを、私たちの沈黙が埋めていく……そんな気がしてくる。
「綺麗だ」
「そうですね」
「夜景のことじゃない」
「え? じゃあ何……」
返事は、言葉じゃなかった。頬に触れて離れていったのは、社長の唇。
「え……」
解釈に困る。欧米の人との付き合いが多いせいか、気障っぽくなくて自然で。恋人が両手の指じゃ足りない数、いるのかもしれない。
彼はコートの襟に入り込んだ私の後れ毛を直し、静かに尋ねた。
「一杯付き合わないか」
「……一杯だけですよ?」
向かったのは、そう遠くない場所。一流ホテルの二階に設けられたバーだった。
「素敵なお店。よくいらっしゃるんですか?」
「このホテルは、年間通して部屋を押さえてあるからな。家に戻る時間がない時、よく転がり込んでる」
「お忙しいですものね」
「今日はゆっくりできた。ありがとう」
乾杯、と笑いかけてくれると、私の気持ちもゆったりとしたものになった。社長の好きな音楽やお酒の話を聞きながら、一杯のつもりが二杯になった。
「一応言っておくが、帰りのことなら心配はいらない」
そっか、タクシーで帰ればいいもんね。お酒、おいしい……ふわふわして気持ちいい……。
「ん? ……これは何とも、危なっかしいな」
大きな手に、肩を抱かれてる。うとうと、睡魔と少しだけ戦って、すーっと眠りに落ちていった。
「ん……あれ?」
気が付くと、天井が見えた。アパートじゃない。ベッドの上……お洒落な照明が、ホテルっぽい……?
「気分はどうだ」
降ってきたのは社長の声。部屋に備え付けの椅子をベッドの脇へ置いて、腰かけている。上着を脱いでいるせいか、少し幼く見える。ネクタイを緩める仕草にドキッとした。
「すみません、ご面倒おかけして。大丈夫です」
起き上がろうとすると、低い声が制した。
「起きなくていい」
彼は立ち上がり、ネクタイを外して椅子の背にかけた。ベッドの縁に膝で乗り、私を見下ろしてくる。
「え、あの」
「言っただろ……五分遅れたお仕置きだ」
前髪に指が触れる。何なのこの状況!?
「帰りは心配ないっていうのは、あれはっ」
「泊まるから心配ないっていう意味だ」
端整な顔が近付いてくる。キスなら初めてじゃないけど。キスだけだけど!
「セクハラですっ……んっ」
重ねられた唇は甘くて、全身の力が抜けていく。息継ぎで離れた時に、見てしまった。縋るような瞳。お仕置きなんて言って、こんなのずるいよ……。
自由のきかない体勢で、おずおずと手を伸ばし、彼の首筋をなぞった。フッと浮かべた微笑みは、これまでに見たどんなものより綺麗だった。