「書類上の手続きは、最低限こんなところだ。社長にもデータを送っておくから。あとはおいおいね。……っと、もうこんな時間か」
壁の時計を見ると、予告された一時間の期限が迫っていた。あまりに驚いて、喜ぶどころじゃなくて、事態を飲み込むのに時間がかかった。
「それにしても……」
部長は表情を曇らせた。何やら、幸太と目で会話している。
「あの、何か……? さっきも部長はため息をついてらしたような。幸太も変な顔してたし」
「うっ」
「……まあ、話さないわけにはいかないな。戸倉さん」
「はい」
緊張する。一体何だろう。
「うちの会社はね、かなり強引な手を使ってのし上がったと思われているんだ。ああ、誤解しないで。そう信じている輩が多い、というだけだ」
「そんな……」
「ただの噂だ。事実ではない。しかし、今の社長が就任なさってから年商は大きく伸び、以前の十五倍にもなっている。妬み、言いがかり……黒い噂というものは、一度広がると消えにくいものでね」
「ひどい……。頑張っている人を認めないで、悪口を言うなんて」
私の呟きに、部長も幸太も困った顔をした。
「悪口で済めば、まだ……な」
「え?」
「社長の専任秘書となると……そうだなあ、防弾チョッキぐらいは用意した方がいいかもしれないね」
防弾チョッキって。撃たれるかもしれないってこと?
「そんなに危ないんですか!?」
「ま、心積もりはしとけってことだよ」
ポン、と肩に置かれた幸太の手と声は、私の気持ちを少し軽くしたけれど。それ以上詳しく聞く時間は残されていなかった。
社長は車で待っているはずだからと、幸太が駐車場まで案内してくれることになった。どこへ行くのかは、誰も教えてくれない。不安は残るけど、とにかく再就職できたし、大会社だし。やってみるしかないよね。
「行ってきます」
幸太について部長の部屋を出ようとすると、呼び止められた。
「戸倉さん」
「はい」
まだ何かあるのかな? 振り向くと、部長は立ち上がって私に深々と頭を下げた。
「一輝さんを、よろしくお願いします」
「あ、はいっ。こちらこそ!」
慌てて深くお辞儀をしてから廊下に出た。入ってきたのとは別のドアから。社内の、それも社長に近い人間しか使えない通路だという。幸太はIDカードで認証されるところを見ると、その限られた人間の一人なんだ。
「すごいね、みんなに信頼されてるんだ。本当にありがとう、幸太」
「何もしてねーよ。まあ、おかげで俺の毎日がもっとおもしろくなる」
「おもしろい……」
私って、そういうキャラに見られてるんだろうか。
「お前がいると、周りが機嫌よくなるってこと」
「……ふーん」
今度は私の方が照れ臭い。こんなこと言われて、嬉しくない人はいない。
コツコツと、二人の靴音が廊下に響く。
「社長も、そこを見抜いたんだと思う。あの人、そういうのすげーから」
「私の名前も、経歴も知らないのに?」
「会ったことがなくても、一枚の写真だけで全部見抜くこともある。全部っていうとわかりにくいかもしれないけど、一瞬なんだってさ」
「え、怖い」
「ハハッ、あの人自身は決して怖い人じゃない。自分には厳しいけどな」
エレベーターに乗り込む。地下に役員専用の駐車場があるのだそうだ。
「……一輝さん、って言ってたね。明田さん」
「ああ……あの人は、社長を子供の頃から知ってるから」
「そうなんだ」
とても大切なんだな、って感じた。
エレベーターが止まった。
「俺はここまで。三番だから、左に行くと近い」
「ありがと」
「ああ、そうだ。できるだけ早く、総務にお前のサイズ伝えとけよ」
「ん? 制服とかじゃないよね」
どう見ても、ここは男女とも私服だ。
「部長が言ってただろ、防弾チョッキ。専任秘書なら経費で落ちる」
「……はい」
ちょっとひきつりながら頷いた。幸太の目が笑っていなかったから。エレベーターの扉が閉まっていく。
「左、ね」
番号を確認しながら歩いていく。
日本は銃社会じゃないけど、ドラマや小説では危険な裏社会の話をよく見る。私も、そんなドラマのような世界に足を踏み入れてしまったのかもしれない。冗談であってほしいけど!
三番を見つけた。運転席の社長は洋書を読んでいる。私に気付いて唇の端を上げた。助手席のドアを開け、「お待たせしました。よろしくお願いいたします」と挨拶すると、おとぎ話に迷い込んだような言葉をかけられた。
「ああ。随分と待った。待っていた……灯里」
くらっと来そうなセリフだけど、発車の振動で我に返った。多分これは、訳すと「遅いぞ」。洋書を読むのもいいけど、自分の日本語を何とかしてよね!
丁寧な運転は心地よかった。
車が止まったのは、趣味のいいブティックの前だった。社長は何の説明もなくお店へ入っていく。仕方なく、後を追う。応対してくれたのは、身長が百七十はありそうな、かっこいい女性。白いブラウスに黒のロングスカートとシンプルな服装で、髪は簡単にまとめただけなのに、ゴージャスな印象を受ける。メイクの効果だけじゃなくて中身も素敵な方なんだろうなと観察していると、社長が不穏な発言をした。
「そうだな、三十分だ。それを過ぎたらお前のせいで彼女がかわいそうなことになる」
かわいそうなことって何!?
「馬鹿なこと言ってないで、控室で待ってなさい。あなたはこっち。お名前は?」
「戸倉灯里です」
「私は
私が履いたことのない高さのヒールで姿勢よく歩き、奥へ案内してくれる。振り返ると、社長はガラスで隔てられた控室に入り、電話をしながらソファーに腰を下ろしたところだった。忙しい人だなあ。豊宮グループの御曹司なら、あれが日常なんだろうけど。
真夜さんについて奥の部屋へ入る時、彼と目が合った。状況も、どんな顔をしていいかもわからなくて、ぺこっと頭を下げるしかなかった。
真夜さんは、採寸もせずに一式選び、メイクも施してくれた。自分ではまず選ばないロマンチックな服装で、鏡を見て目を見張った。栗色の地毛に合う上品な赤いドレスと、煌びやかな髪飾り。いつもより深い色のルージュ。全体的に、私とは別人の大人の女性に見えるのに、鏡の中の彼女は柔らかでかわいらしい雰囲気も醸し出している。
「素敵……」
「気に入った?」
「はい、とっても」
「よかったわ」
真夜さんはウインクして、コートやバッグ、靴なども揃えてくれた。
鏡の前で、くるっと回ってみた。これを見たらあの人は何と言ってくれるだろう? そんな風に……祈るように思うのは、初めてかもしれない。
社長は控室から出て待ち構えていた。
「お姫様の出来上がりよ。待った甲斐があったでしょ」
「ほぅ……」
彼は目を見開いて声を漏らしてから、ニヤッと笑った。
「上出来だ。五分遅刻だがな」
「何言ってるの。ここは私の店よ。勝手なルールはお断り」
真夜さんのよく通る声が彼をたしなめる。
「行くぞ」
「え、あっ」
ぐいっと引っ張られて、勢いで腕を組む格好になる。おまけに、慣れない高さのヒールでぐらついて、しがみついてしまった。
「積極的だな」
「からかうんじゃないの。灯里ちゃん、こいつのペースに巻き込まれないようにね。いやなことはいやって、ちゃんと言うのよ?」
「はぁ。……あ、あの、ありがとうございましたっ」
さっさと歩く社長についていくしかなくて、慌ててお礼を言いながらお店を出た。
「楽しんでらっしゃい」
真夜さんは、手を振って見送ってくれた。