ため息を吐いた佐々木は寝台個室のテーブルに置いてあったビニール袋の中のお弁当と缶ビールとスポーツドリンクと日本酒の
事件がなければこの缶ビールに獺祭とお弁当を楽しみながらの旅になるはずだったのだ。それがどんな楽しく幸せなものか。佐々木は体験したことはないが今は容易に想像できる。
個室の窓のブラインドを閉めていたのだが、ふと思ってそれを開けた。窓に憂いを帯びた自分の顔が映る。
だがそのあと、部屋のコンソールのスイッチで明かりを消してみた。
流れていく藍色の深夜の車窓にあたたかそうな家々の明かり、上には星空が広がった。
当たり前といえば当たり前だが、それがとてもファンタスティックに思えた。
こんな優雅な旅が、まだ日本でもできるんだ……。
普段の移動の新幹線ではこれは絶対にできない。寝台列車は乗車時間はかかるが、その代わりのあふれる優雅な時間が素晴らしいのだ。新幹線だと早くつかないかなぐらいのことしか考えないのだが、この寝台列車はそう思えない。逆にこのゆったりとした時間を堪能したいと思えるのだ。ただの乗り物を超えた魅力。どうりで鷺沢や四十八願が夢中になるわけだと佐々木は理解した。
そしてスポーツドリンクを飲んだ。本当は休暇なので捜査の仕事のことをする必要はないし、したところで話がややこしくなることもある。
お弁当を手にした。夜食、太るからやめてたんだけど……せっかくだからいいよね、と佐々木は自分に言い訳して包みを開けた。
東京弁当、とある包みを開けて、紙おしぼりで手を拭いてさらにあけると、いかにもの色使いのよい幕の内弁当の景色が広がった。Vの字に区切られたお弁当箱に刻み梅の乗った白いご飯にキングサーモン京粕漬け、牛肉たけのこに江戸うま煮、かまぼこに伊達平焼、葡萄あさりと東京の老舗8店の味のつめあわせとのことらしい。揚げ物はなく煮物と焼き物中心なのがまた好みだし、全体に色彩がよく上品だ。そして東京駅出発から時間が経っていて冷めているはずなのに鼻を香りが快くくすぐる。
これを我慢できるものか。
佐々木はうま煮の人参に箸をつけた。よく炊けた人参はとても柔らかく、噛むと出汁の効いた深い味わいの煮汁がじわりと口の中にみずみずしく広がり、こんな事件のさなかなのに幸せな気分になる。食べ物というものは本当に良いものだ。獺祭がぴったり合いそうで、非番だからと一瞬迷ってしまい、いけないいけないと我に返る。
犯人は何を思ってこんな幸せな寝台列車の中で人を刺したのだろう。よほどのうらみがあったのだろうか。迷惑系YouTuberの事件は最近増えていて、警察でも問題として認識している。私人逮捕なども警察としては正直迷惑もいいところで、正義ぶってやられてもあとで誤認だったり逮捕の要件を満たしてなくて問題になったりと全くろくなことがない。それでもそんな愚かな行為がpvを稼ぎ収入と自己肯定感になってしまうのでやってしまうものが後を絶たない。本来ならそういう気持ちを助長しているYouTubeなどSNSの運営、プラットフォーマーを規制すべきだと思う。いくら言論の自由とはいえ彼らはそれを軽んじて都合のいいときには言論の自由、都合の悪いときは契約の自由で責任逃れをしてしまう。そして欧州ではそういったプラットフォーマーの横暴に規制をする動きが強いが、本邦では動きが遅すぎる。なにしろUSBメモリすら知らない人間がデジタル庁の大臣になったという冗談みたいなことが本当に起きるぐらいなのだ。
ともかく今夜は容疑者を車内にとどめ、なおかつ第二の犠牲者を出さないことが大事だ。捜査そのものは明日にならねば動くのは無理だ。
……だったら非番なのに無理することはないんじゃないだろうか。
佐々木はそう思ってしまった。鉄警隊がいるのに無理に起きて警戒しても仕方がないといえばそうだ。それよりしっかり眠って明日に備えたほうが正解ではなかろうか。
お弁当の煮物を食べながらそう思った。窓の外を黒い影がガチャガチャといいながらすれ違う。コンテナ貨物列車だろうか。真っ暗な夜も東海道は忙しいのか。
缶ビール、飲んじゃおうかな。
佐々木はそう思った。どっちみち非番の旅行中の刑事にそんな責任負わせるのはどうかしているのだ。今どきそんな過剰労働、やったほうがかえって問題というものだろう。
思い切って、佐々木は缶ビールを開け、口に含んだ。ジョッキでないのがちょっと残念だが、それでも素晴らしく美味かった。弁当もまたこのビールに合う。よく見たらビールは恵比寿だった。四十八願が一緒に来る佐々木を気遣ったのだろう。ほんと、四十八願は気が利くいい子だ。そんな子がまともに行くことのできない今の学校とはどういうところなのだろう。氷河期世代の鷺沢の頃は人数多かったが佐々木の頃になるとクラスも少人数化し、ゆとり教育なんてのが幅を利かせていたが、佐々木はそれでもきっちりと勉学と剣道に邁進してきた。
それにしてもビールが美味しい。車内での飲食はどんどんできなくなってきている。車内販売もなくなり、食堂車やビュッフェはもう歴史の遺物になってしまった。でも車窓を見ながらの飲食が特別だというのは鉄道に詳しくない佐々木でもいま理解できた。たしかにこれは病みつきになる。
缶ビールを飲み干し、獺祭に手を付ける。フルーティーな呑み口で有名な日本酒、実に口の中で旨さの花が開くような快い味だ。そして出汁の効いたこのお弁当がよく合う。
LINEグループを見た。鷺沢や四十八願、晴山や橘もオンライン表示だが、とくにだれからもコメントはない。きっとそれぞれに寝入ろうとしているのか。
その時だった。
佐々木さん、お弁当とお酒、どうしました?
うっ、鷺沢またこんなコメントを。どうして鷺沢はこうなんだろう。
いいと思いますよ。非番ですし、鉄警隊もいますから。
そうだと思ったけど鷺沢に言われるとなにかムカつく。
で、ちょっと考えたんですけどね。容疑者のこと。そしたら、ちょっと思うところがあって。
なんのことです?
容疑者、どんなやつかなあ、って。そしたら、なんとなく想像がつきました。
多分容疑者、朝になったら動きますよ。
なんで?
佐々木はコメントで聞いた。
いくつかぼくも見落としてるところがあったのに気づいたんです。
なんだろう。
佐々木は気になって更に聞いた。