目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第66話 容疑者は防空識別圏?(3)

「すまないけど忙しいので手短に」

 高齢の女性が液晶パネルの向こうで、日干しレンガの壁を背に息を整えた。

「メール、拝見しました。あなたたちはいささか私を買いかぶってらっしゃると思うところもあります。私はあの爆弾事件の時に死んでいる。それだけの罪を背負った自覚があります。だから私自身のことは顧みる価値の一切ない人間だと今でも思っています。それよりもっと大事な人々もいるし、私の思う事よりも優先されるべき思想や思考がこの世にはいくらでもある。そう思って50年間を過ごしてきました。私に人に説くべき思想などないし、人を導くなどもってのほか。そういう資格はなかった。今やっているこの仕事もカナダで知り合ったこの団体の先輩の受け売りに過ぎない」

 彼女はそう言って微笑んだ。しかし目は少しも笑っていない。そこに鷺沢も佐々木も、複雑な思いを読み取った。

「でもあなたは今、多くの人々を人道支援で救っている。そのことは認められるべきです。罪は罪、人は人ですよ」

「私の羞恥の観念はそれを許せない。50年経っても未だに。そして私の心臓の片方はいま日本で死刑を待っている。それなのにもう片方である私が放免されることなどあってはならない。神は私にそれを償いとして課したのです。私に今、何かを語る資格はない」

 そういえばこの花子こと高梨詩織はあの『初日爆破事件』のあとの放浪の間に洗礼を受けていたと記録にあったのを佐々木が思い出す。

「『太郎』こと鈴木一秀さん経由で『ビックリ男』こと大谷益男と文通していたのですね」

「ええ。私達3人は決してもう一緒になることはない。遠い星の彼方ほどの距離がある。でも私達は共犯者であり、その罪を償わねばならない」

「カナダの人道支援団体『ライト・アンド・ホープ』を紹介したのは『ビックリ男』ですね」

「ええ。彼は本来ならそういう世界を真に照らす希望となるべき人間だった。そういう知見と人脈を持っていた」

「それで伺いたいのです。『太郎』こと鈴木さんが行方不明になっているんです。行方についてなにかご存知のことがありませんか」

「それはあなたたち警察や公安がつかめていることでは。彼はもう尾行をまいたり行方をくらますことはしていないと思います」

「それが……」

 佐々木は口にした。

「参考にお話を伺おうとしたうちの刑事をまいちゃったんです。尾行するつもりではなかったとはいえ、あまりにも鮮やかにフッと行方をくらましてしまった」

「そんなことが」

 彼女は驚いている。

「もうそんなことはしなくていいと思っていたのに……」

「彼の行方を知りたいのです。そして彼がなにか間違えているのなら私達は救いたい。もしそうでなくてなにかをなそうとするなら私達は手伝いたい。私達はあなたたち3人の学生生活の資料を拝見しました。社会正義とは何かを真剣に追ったあなた達の青春は他の学生紛争の人々と違うところがあった。あなたたちは本当に無私の気持ちで社会正義の実現を目指した。……だから周りから浮いてしまい、そして騙された。50年前のあのとき仕掛けた爆弾は脅しのためだった。時間で爆発するようになっていたけど無線で爆発をキャンセルできるようにしてある、と爆弾を用意したものに言われた。しかしそれは嘘だった。無線による爆発中止機能ははじめから無かった」

 彼女は更に驚いている。

「そしてその事実をあなた達は後で知っても主張しなかった。主張すれば減刑される可能性があるのに」

「にもかかわらず私達の罪は罪です」

 彼女はうつむきながら答えた。

「若さ、というより幼さにかまけ、それなのに人を導けると勘違いし、調子に乗って暴力に訴えたこと自体はもうどうやってもかわらない。あとで何を言おうと」

 でもその声はとても悲痛な声だった。ほんとうは許されたいはずだ、と鷺沢は思った。こんな自責の念とともに生きるのは過酷すぎる。目を見合わせると佐々木も同じことを感じたようだ。

 最近かつての活動家を無責任にもてはやし集会で持ち上げているマスコミや支援者がいるが、こういう黙ってこらえている人もいる。こういう人のことは知られることはない。そのために、そうもてはやされる活動家に反感を持つ若い人々が多いのは仕方がないが、それがいつの間にか主語が大きくなって世代間の対立に発展していく。この世界はどこまで散り散りに分断され崩壊していくのだろう。その崩壊の先の闇の深さにゾッとしてしまう。だが、もうそれは止めようがない。

 それでも花子こと高梨は必死に人道支援をしている。ウクライナでも画面の向こうのガザでも。どう考えても未来が闇に思えてくる悲劇が拡大していく中で、花子の活動は相手があまりにも大きすぎるとはいえ、間違いない希望の光だ。

 佐々木はこんなひとが自責の念に縛られていることが残念に思えてならなかった。こういう人材がもっとのびのびと活動できたらどんなに多くの人をさらに救えるか。

「私の罪は消えないし、この命が尽きるまで償いは終わることはない。だから後輩にはこうなってはいけない、と言ってきました」

「後輩?」

「ええ。あの事件の前まで色々な話をしました。フェミニズムとはなにか。フェミニズムは人それぞれだし、自由を大事にするのも重要な観点。一つに決めつけがちなフェミニズムはファシズムの変形になってしまう、と。良い後輩でした」

 鷺沢は気づいた。

「その後輩さんって、理論女子大の桜井梨里杏教授では?」

「ええ。教授になったのは知っていました。彼女には自由の太陽のもとを歩いてほしい。私のできなかった道を」

 佐々木と鷺沢は目をまた見合わせた。あの教授の先輩が花子だったなんて。

「彼女たちには私にはできなかった未来を歩いてほしい」

 花子はそう言うと、遠くを見つめる目になった。

 そして、少しの間の後、意を決して話しだした。

「『太郎』や『ビックリ男』と約束した場所があります。この罪を償い終えて生まれ変わったらここに3人で集まりましょう、って。そんなことは無理かもしれないけど、約束した場所でです」

「どこですか?」

 花子は画面の向こうでキーボードを打って、メッセージを送ってきた。

「ありがとうございます!」

 佐々木が言うと、鷺沢は続けた。

「きっと会えますよ。きっと」

「無理でしょうね」

「いえ、神様ってのは我々の思うよりもはるかに過酷でありながら慈愛に満ちていて、なおかつ狡猾なんです。あなたは神から不幸を頂いているのでしょう。でもそれとともに神は幸福をくれている。気づくのは難しいけど、それに気づいているからあなたは耐えているのだと思います。でなければ到底耐えられない」

 鷺沢の言葉に花子は微笑んだ。

「『ヨブ記』をあなたも読んだことがあるのね。そう。そういう意味で私はきっと強情なのでしょうね。でも神を試しても呪ってもどうにもならないのは自明です」

「あなたは塵に帰るかもしれない。でもみな同じこと。そしてあなたのなしている偉業はにもかかわらず光として残り続け、人々を照らすでしょう。少なくとも私にはそうです」

「ありがとう」

 花子はうなずいた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?