「へんだな、と思うのは防空識別圏に容疑者になれる人格とか生命の要素があるかどうかってとこですよね。もちろん普通はないです。防空識別圏ってのは日本の場合1950年に設定されたもので、ここに入る航空機は位置報告や飛行計画を提出する必要が生じます。それを怠ったり不審な行動を取った場合は自衛隊機の警戒監視や要撃の対処を受けることがある。領空と違って国際法上の根拠はないけど、慣習法としてどの国にも認められてる。領空の外側に広がっていて、領空に入る前に不審機を識別する区域、それが防空識別圏です。だからこれが容疑者になることはあり得ない。言葉としても意味としてもおかしい」
四十八願が調べたことを説明する。
「そりゃそうだ」
「ところが、生命の定義ってのは実はメチャメチャ難しい。科学でも哲学でも未だに完全に定義できていない。一般的な定義だと「自己と他者の境界」「代謝」「自己複製」の3特徴で言われます。でも防空識別圏はたしかに境界となっているし、代謝、つまり自己維持のためのエネルギーも持っている。そして自己複製についても、防空識別圏は数年に一度それを管理する警戒システムを更新してそのたびにデータを複製している」
「ええっ、じゃあ防空識別圏は生命なの? そんなバカな」
「この基準だと地球や火星も生命になります。そしてウイルスや火山岩は生命かどうか非常にどっちかわからなくなってしまう」
「そりゃそうだ」
鷺沢も頷く。
「哲学でも難しいです。無機世界の原理に還元できるかどうかで判断が分かれています。生命は機械なのか、それとも違う原理があるのか。また生物は部分の総和以上の全体性を持つかどうか。どっちにしろひどく難しい定義になります」
「とはいえめちゃくちゃだ」
「そう思えるんですが……私はAIの出すハルシネーションが全くのウソや無意味であるとは思えないんです。何かのヒントになるのではないかと」
四十八願はグラフを出した。
「なにかと相関があるのかと思って、防空識別圏での不審機へ対する反応と今回の事件である連続放火の関係をグラフにしました。そこで弱い相関を見つけました」
「関係あるのかな……でもなんでまた」
「わからないです。そしてこの状態で失踪した50年前の大学での『初日爆弾事件』の重要参考人『太郎』こと鈴木和秀さんの事も調べました。痴呆症かと思われたんですが、彼は自治会の書記としてこんなものを作っていたんです」
「なんだこれ」
「データベースです。自治会の管理している自治会館の利用受付・予約簿や自治会費の会計処理といったものを彼はデータベースを構築して処理し、またそのメンテナンスもやっていました。良い頭の体操になる、といって無償でやっていたそうです」
「自治会のDX、デジタルトランスフォーメーションをやっちまってたのか」
「そんな人が突然痴呆症になって徘徊してしまうでしょうか。たしかに痴呆症にはそういう急激な進行の例はあります。でもここでそれだと決めつけるよりも、何らかの意味があって失踪したと考える方が解決に近いと思えます」
「たしかに」
「とはいえ、どこに行っちゃったんだろう。佐々木さん、警察はどこまでつかんでるの?」
「今のところ鉄道駅の防犯カメラにはそれらしき姿は見つかってない。『太郎』の家の自家用車も使われていないようだし、国道や高速道路に仕掛けた自動検問システムにもそれらしき不審車両は見つかっていない」
「全然つかめてないのか……」
「これで袋小路です」
「これでヒントが『容疑者は防空識別圏』だけなんて。完全なノーヒントに近いよ」
鷺沢は嘆く。
「でも、『太郎』がもし誰かに会いに行くとしたら、と考えることは出来るかも」
「『太郎』の交友関係を調べたけど、とくにそれっぽいのがないのよ。普通の近所づきあいの他は何も見つからない。いかにも仕事熱心だったサラリーマンの穏やかな老後って感じ。自治会のDXをやってみたり、好きな趣味をやってみたりしながら家族と過ごす日々」
佐々木が捜査資料を見てそういう。
「一見平凡に見えるけど、それが何かを隠すためだとしたら?」
「どうなんかな。でも『太郎』さんの趣味ってなんなの?」
「普通の趣味だって話なんだけど」
佐々木がそう答える。
「まさか、鉄道趣味?」
「鷺沢さん、自分がそうだからって周りもそうだと思わないでください」
「こりゃ失敬」
「でも……趣味って思わぬ人と人とのつながりを作りますよ。もしかすると」
佐々木は頷いた。
「ちょっと調べてみます」
「で、鷺沢さんの調べたことは」
「その『花子』さんが気になって。もしかすると『太郎』は生存が判明した『花子』に会おうとしてるんじゃないかな、と」
「ロマンティックですけどそんなこと、あり得ます?」
「『花子』こと高梨詩織の履歴を調べた。南米のクーデター事件で射殺されたことになってたけど、そのあとカナダ発祥の人道支援団体『ライト・アンド・ホープ』に所属するようになり、そこで頭角を現す活躍によって今やその現地代表となっているらしい。ちょっと前はウクライナにいたけど、今はイスラエル・ガザ地区の支援にラファ検問所にも行っているという。現地の人たちには女傑として知られていて、エジプト軍もイスラエル軍も、さらにはパレスチナ自治政府やなんとあのハマスでさえ、彼女の存在に一目置いているらしい」
鷺沢がそうiPadにまとめたメモを読む。
「すごいじゃないですか」
「男よりもずっと度胸がある、ということでどの陣営からも信頼されているけど、それ故に彼女を疎ましく思う者もいるらしい」
「で、今は?」
「正確な所在は不明だけど、おそらくラファ検問所付近にまだいるんじゃないか、って」
「じゃ、『太郎』はそこへ行こうとしてるのかな?」
「出国の形跡はないのよね」
「じゃあどこへ……」
四十八願と佐々木、鷺沢は何も思いつかずに息を吐いて天井を見上げた。