週に一度のワークショップ。紅茶アドバイザーの資格を持つ私は、生徒さんに紅茶の知識と美味しい淹れ方を教える。時間は60分間だけど、半分はただのお茶会みたいになる。それを気に入って受講してくれる人たちのおかげで、私はこの仕事を続けられていた。
でも、この日はさすがに中止にするべきだった。
窓の外はひどい豪雨で、街を南北に走る川は増水。堤防が決壊して洪水となり、木々や物が流されていた。
「この建物、大丈夫なんですか?」
今にも泣き出しそうな顔をしてたずねてきたのは
私も泣きたい気持ちだったが、どうにか平静を装った。
「今のところ流されてる感じではないですし、たぶん大丈夫です」
「でも、建物自体は古いですよね?」
と、口を出してきたのは
「大丈夫よ。だってここ、コンクリートでしょ? それより身動きが取れない方が問題だわ」
と、この場では最年長の
「ええ、そうですね。とにかく救助を待つしか……」
直後、扉が勢いよく開いて若い女性が入ってきた。
「みなさん、三階に上がった方がいいかもしれません」
「え?」
レンタルスペース店の受付スタッフである彼女は、顔面蒼白になって言う。
「一階はもう使えません。水がどんどん入ってきてて、二階まで入ってきそうな勢いなんです」
私たちは驚きの声を上げたが、考えてみればここは街の中でも比較的低地にある。緩やかな坂に挟まれた、いわば谷なのだ。
「急いで上へ行きましょう」
と、私は声をかけて、貴重品の入った鞄を肩へかけた。
翠田さんたちも慌てて荷物を手にし、スタッフの彼女の後について三階へと上がる。
すると騒ぎを聞きつけたのか、三階の一室から派手なメイクをした女性が顔を出した。
「ここ、屋上はないの?」
「あると思いますが、入れるかどうか」
と、スタッフの彼女が困惑をあらわに言い、女性客はむすっとした顔で部屋へと戻る。
すぐに先ほどの女性は別の女性二人を連れて外へ出てきた。
「屋上にいた方が見つけてもらいやすいでしょ」
と、階段を上がっていく。
察したスタッフが慌てて駆け上がり、屋上へ続くはずの扉へ手をかけた。
ガチャガチャと音がするが扉は開かなかった。どうやら施錠されているらしい。
「ちょっと! どういうことよ!?」
「す、すみません! どうにかして、今扉をっ」
「邪魔よ、あたしがやる!」
女性客がスタッフを突き飛ばすようにして扉へ手を伸ばした。ガチャガチャとまた音がするが開かず、次に彼女はガンガンと扉を蹴り始めた。
それでも開かない扉に、女性客は何故かスタッフをにらみつける。
「これじゃあ、救助が来ても見つけてもらえないじゃないの!」
「どうにかして開けなさいよ!」
「鍵はないの!? スタッフならそれくらい持ってなさいよ!」
この非常事態に、しかも雇われ店員でしかない彼女を責めるとはひどい。見ていられなくなった私が階段を上がろうとした時だった。
壁際で震えていた彼女が、急にキレた。
「知らねぇよ! こっちだって必死なんだよ!」
女性客たちがびくっとしたのも一瞬で、すぐに険悪な雰囲気になる。
「客に向かって何よ、その態度!」
「生意気!」
「スタッフでしょ!? なんとかしなさいよ!」
「ざけんなっつってんだろ!? テナント借りてるだけなんだから、ビルのことなんて知るわけねぇんだよ!!」
「ふざけんなはこっちの台詞よ!」
狭い空間で喧嘩が始まってしまった。派手なメイクの女性がスタッフにつかみかかるのが見えて、私は嫌な予感を覚えた。
急いで止めに入ろうと階段に足をかけた直後、女性客がスタッフを突き飛ばした。その拍子にバランスを崩したスタッフの体が宙へ浮き、私の目の前で落下し、ものすごい音とともに三階へと落ちる。
いったい何が起こったのか、事態を理解したのは誰かが叫んだからだった。
「きゃああああー!!!!」
スタッフの彼女の頭から、じわりと血が出ては血溜まりを作っていく。
気づいた途端、私は思わず飛び退いてしまった。
「う、嘘……」
階段の上から声がし、誰かが言う。
「もしかして、死んでる……?」
どうしてこんなことに!?
頭の中が混乱して体が動かない。ただでさえ非常事態なのに、人まで死んでしまった。
空井さんが冷静に鞄からスマートフォンを取り出す。耳へ当てたが、すぐに舌打ちをした。
「ダメです、電波がつながらない」
この洪水で近くの基地局がやられてしまったようだ。
「どうするんですか?」
と、怯えた様子で翠田さんがたずねると、上から茶髪の女性が下りてきた。
「証拠隠滅しないと!」
「はあ!?」
思いがけず私の口から大きな声が出て、茶髪の彼女が返す。
「だって殺しちゃったんだよ? 外は洪水、窓から投げ捨てれば死因なんて分からなくなるに決まってる」
「ふざけないでくださいよ! 人の命を何だと思ってるんですか!?」
「だって、
大きな声で言い返されて、私は一歩引いてしまった。
「だったら証拠隠滅するしかないじゃん! そうでしょ、真里奈!?」
と、上へ呼びかける。
真里奈と呼ばれた女性は床へ座り込んで放心状態になっており、もう一人の女性が心配そうに肩や背中をさすってあげていた。
すると、藤原さんが言う。
「そうね、何も見なかったことにしましょう」
「えっ、藤原さん!?」
「だって殺人事件でしょう? わたし、面倒なことに巻き込まれたくないわ」
「で、でも」
私が戸惑っている間に、藤原さんは茶髪の彼女と顔を見合わせてうなずき合った。
「手伝うわ」
「ありがとう、おばさん」
そして二人は遺体を協力して持ち上げた。
「翠田さん、窓を開けてくれる?」
「は、はいっ」
藤原さんに指示されて、翠田さんは近くの窓を開けた。
「やるわよ、せーの」
大人一人が通れる程度の大きさの四角い窓から、遺体が濁流の中へと投げ込まれる。
「……そんな」
私は何も出来ず、ただ見ているしかなかった。目の前で行われていることがいかに倫理から外れたものか、頭では分かっていたのに。
「この血、どうしよう」
「布で拭いて、その布も捨てればいいわ」
「そっか」
二人が近くの部屋へ入っていき、ありったけのタオルを持って戻って来る。
床に広がった血溜まりを拭き取り、開放されたままの窓からどんどん捨てていく。
「よし、これくらいでいいんじゃない?」
「最後に濡れたタオルで拭けば、終わりね」
藤原さんが部屋の水道で濡らしてきたタオルを使い、血溜まりがあった箇所を丁寧に拭く。
そこだけすっかり綺麗になってしまい、むしろ不自然なくらいだ。でも、ほんの数十分前までそこに遺体があったとは思えないのも事実で、私は何だか気が抜けてしまった。
空井さんの隣へ移動し、私はその場にしゃがみこむ。
すると、空井さんもしゃがみこんで私へ耳打ちしてきた。
「大丈夫、証拠写真とったから」
はっと顔を上げた私だったが、すぐに視線を感じて緊張する。目の前に立っていたのは藤原さんだ。
「あなた、ずっとスマートフォンを持ってたわね」
「ええ、警察に連絡がつかないかと思って」
冷静に返す空井さんだったが、スマートフォンを握る手が小刻みに震えている。
藤原さんは有無を言わせず、空井さんの手からスマートフォンを取り上げた。
「あっ」
と言う間もなく、スマートフォンまで濁流の中へ投げ込まれる。
「あとはあの子ね」
と、藤原さんが階段を上がっていき、私は頭を抱えるようにしてため息をついた。
もうダメだ。私たちも見なかったことにするしかない。
「ごめんなさい、先生」
「私に謝られても……」
空井さんはがっくりと肩を落とし、あとは事の成り行きを黙って見ているだけだった。