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八、英雄ヘラクレスとの戦い

 矢部総理が掛け時計に目をやると、伝通の地曳じびきさんやJGCの守本会長らとともに、ヘラクレスと荷稲博士が執務室に入って来た。

「皆様、お待ちしておりましたぞ」

 四人を備え付けのソファへ促すが、ヘラクレスはいつものように荷稲博士の背後で静かに佇んでいた。

「いやぁ、荷稲センセのお陰で、ゴリンピアもやっとここまで漕ぎ着けました!」

 地曳さんは意気揚々と、丸めていた新国立競技場の図面をテーブルに広げ、開会式の最終確認を始めた。

「まず、大会組織委員会の守本会長と矢部総理からご挨拶してもろて、天脳陛下の開会宣言のあと、女神カリオペによる国歌斉唱と続きます」

「ふむ」

「その後、アポロン、アテナ、アレス、アルテミス、ヘラクレス、アキレウス、ペルセウス、ディオニュソスら八人の神さんがゴリンピック旗を持って入場、その他の神さんも続けて入場、合間にムーサ少女隊の演奏と踊り入れさしてもろて、今も一人で聖火持って全国走ってるヘルメスはんが入場、神話になぞらえてプロメテウスが聖火台に火を灯して終了、ちう段取りになっとります!」

 本来の塔京ゴリンピックは、大手広告代理店の伝通が一手に取り仕切る予定だったけど、それがナノロイドたちによるゴリンピア大祭に変わった事で、プログラムは荷稲博士の意向に沿って進められていた。伝通との共同プロジェクトという体裁になってはいたが、内心歯痒い思いがあるに違いない。

 とはいえ経営が傾きかけていた伝通としては、一度逃した儲け話が奇跡のように復活し、さらに大きな儲け話となって戻って来たのだから文句も言えないのだろう。

「失礼いたします」

 ロングコートを羽織った姿でお茶を出していると、荷稲博士があたしの方を見て訝しげな顔をした。

 守本会長は神々の名が並ぶ書類を嬉しそうに見ていた。

「まさに、日本は神の国でありますな」

 また不穏な発言を……。


「ふむ。プログラムは問題なし。博士、例の高速BSRの具合はどうかね?」

「はい、そちらも最終テストが終了しましたよ」

 コロリウイルスの影響もあり、当初は無観客で競技を行うつもりでいたのだが、さすがに盛り上がりに欠けるだろう、という意見が多く、塔京都民で観客席を埋める話になった。

 そこで注目されたのが〔Brain Scan Reaction〕の技術だ。

 その名の通り脳細胞をスキャニングする事で、コロリウイルスを発症しているかどうかを確認する装置だ。検査に引っ掛かった陽性患者はこれまでに九人おり、機器の信頼性は充分にあると考えられていた。

 ま、脳が空っぽの九人は、一日も経たないうちに首がげたけどね。

 問題は、従来のBSR装置では一度に多くの人間のスキャニングができず、競技場を埋める観客の検査に時間が掛かり過ぎるという点だった。

 そこで、荷稲博士が改良を加えた大型で高速のBSRを使う事になった。

「あとは、ゲートの左右に設置したBSRに観客を順番にお通しすれば、自動的に検査が完了しますよ」

「これで開会式の進行の再確認が終わりました」

 地曳さんが図面を丸めてアジャスターケースにしまっていると、総理は顔を寄せてやや小声で話し始めた。

「それはそうと地曳よ、ゴリンピア大祭の忙しさから、伝通の社員がまた何人か死んだという報告がこちらに上がって来とるぞ」

「いやぁ、ちょいと徹夜が多かったようですわ」

「ふむ。今回は遺族に金を積んで揉み消せよ。マスコミはこっちで潰しておく」

「はい、社員らには今後絶対に死ぬなと言うてあります」

 ああ……黒い。

 何も聞かなかった事にしよう。


「それでは、ぼくたちはお先に競技場へ向かいますね」

 と言って荷稲博士が席から立ち上がると、矢部総理はふと思い出したように、ようやくあたしの話を切り出した。

「その前に、うちの乃村くんの事で少し相談があるんじゃが」

「はて、何でしょう?」

 博士はあたしのロングコートを、上から下へと興味深そうに凝視した。

「まずは見てもらうしかあるまい。紫音、お見せしろ」

「えっ、ここで脱ぐんですか!?」

「誤解を招くような言い方をするんじゃない。さほど露出度の高い服でもあるまい」

 せめて、広告マンの地曳さんと守本会長は帰して欲しかったけど仕方がない。あたしは意を決して、再びロングコートの前をはだけた。

 やはりどう考えても痴女だわ……。

 だが、あたしのセーラー服姿を見るなり、博士の顔は険しいものに変わった。

「その服、どこで手に入れた?」

「あ、朝起きたら突然こんな姿になってたんです!」

「今ならまだ殺せるか……」

「えっ、何と仰ったんですか?」

 何かの聞き間違いかと思い問い質すと、荷稲博士はすうっ﹅﹅﹅とヘラクレスの背後に下がり「セイフティ・プロトコル解除」と呟いた。

 すると、いつも穏やかなヘラクレスの顔が獣のような相貌へと変わり、褐色の肌がみるみると赤く染まった。

「ヘラクレス、そのセーラー服の女を殺せ!」

 今度は間違えようがない。

 荷稲博士はナノロイドにあたしを殺すよう命令したのだ。

 半神半人の英雄ヘラクレスは弓でも放つように上腕をぎりぎりぎりと引き絞り、次の瞬間、ぶうんっと唸りを上げて拳を突き出した。

「キャっ!!」

 身を屈めすんでの所で攻撃を躱すと、背後で何かがぱんっ﹅﹅﹅と弾ける音がした。振り返ると執務室の本棚が真っ赤に染まり、無くなった自分の頭部を探し求める憐れな男の姿が見えた。それは、後ろに立っていた地曳さんの胴体に違いない。

 あまりの事態に呆然としていると横っ腹に衝撃が加わり、あたしの身体は執務室のドアに叩きつけられていた。防弾機能があるはずの分厚いドアは半壊し、廊下に蹴り出されたのだ。

「荷稲博士、何の真似ですっ!?」

 どこか遠くで叔父である矢部総理の怒号が聞こえた。ドンっという音とともに壊れかけたドアは蹴破られ、二メートルを優に越えるヘラクレスの巨体が廊下に現れた。

 殺される?

 ナノロイドにはロボット三原則が組み込んである。新造叔父さんや足沢大臣と一緒にナノテク研究所の安全テストにも立ち会った。でも、さっきの何とか解除で安全装置は簡単に外れたのだ。騙されていたのだ。どうせあたしたち凡人には、安全装置が本当に安全かどうかなんて分かりようが無い。偉い博士が安全だとのたまえば、それを鵜呑みにする無脳の集団だ。

 もつれる足で廊下を駆け抜け、ようやく玄関前の赤い絨毯が敷かれた階段に辿り着く。階段を降りれば外に逃げられる。そんな微かな希望の光を打ち壊すように、今度は背中に強い衝撃を感じた。あたしの身体は空中に投げ出され、そのまま階段下のホールに叩き付けられた。

 真っ赤な筋繊維をぎゅるぎゅる﹅﹅﹅﹅﹅﹅と蠢かせ、神話の英雄ヘラクレスが階段をゆっくりと降りてくる姿が見えた。

 そうだ……。二メートルを越える体長、異常に肥大した筋力を搭載していながら、この男は百メートルを五秒で走る化け物だったんだ。あたしがちょっと走ったくらいで逃げられる相手じゃない。

 ヘラクレスは頭部を両手でぐっ﹅﹅と掴むと、自分の目の高さまで持ち上げ、捕えた獲物を確認するようにあたしの顔を覗き込んだ。そしてホールの壁際までのしのしと歩を進め、赤煉瓦の壁に頭蓋をゴツンゴツンと叩き付けた。

「紫音を離さんか、この化け物っ!!」

 また新造叔父さんの声がした。

 警備の人たちのピストルを撃つ音もした。

 でもこの怪物は、そんな豆鉄砲じゃ傷一つ付かない。

 ああ、ヤバい。

 あたし、本当に死ぬのね。

 母さんにお別れの言葉も残せないなんて……。

 女手一つであたしを育ててくれた母さん。

 あたしたち親子を影で支えてくれた新造叔父さん。

 先立つ不幸をお許しください。

 ……でも不思議。

 痛くも痒くも無いわね。

 っていうか、何だか身体が熱いわ。

〔諦めるのはまだ早いよ〕

 突然、頭の中に優しい男の意識が滑り込んできた。

 この声は、今朝の夢に出てきた人?

 あたしの意識が、すうっ﹅﹅﹅と頭の奥に引っ込む。

 気を失ったわけではない。

 まるで自動車にでも乗っているように周りの景色がファインダー越しに視え始め、自分の肉体に新しい血液が流れ込んで来るのを感じた。


「ぐっおおおおぉぉぉぉぉっ!」

 という野獣のような雄叫びが上がった。

 頭蓋を締め付ける丸太のような両腕に、小さなあたしの手が掴みかかるのが見えた。ぎぎぎぎぎと軋む音が聴こえ、やがてあたしの頭を挟んでいた両手はばちん﹅﹅﹅と左右に外れた。神界一の力持ちである自分の腕を押し戻した女を、ヘラクレスは口をぽかんと開けて見つめていた。

〔さぁ、反撃の時間だ〕

 頭の奥で優しい男の人の声が言った。

 あたしはヘラクレスの両腕を掴んだまま跳躍し、その分厚い筋肉で守られた胸板を両脚で深く蹴り込んだ。巨体はガクガクと後方に崩れたが、倒れる事なく踏み止まった。

 あきらかにあたしの力を舐めていたのだろうけど、今の攻防で目が覚めたとばかり、ヘラクレスは怒りに燃える紅い双眸をこちらに向けた。

 ヘラクレスは態勢を低く構えると、右に左にフェイントを掛けながら猛然と突進した。二メートルを越える巨人が、まるでサッカー選手のように華麗なフットワークであたしの側面へ入ると、両腕を挙げて無造作に振り下ろした。あたしは片手でヘラクレスの腕をブロックし、心臓に目掛けて渾身の正拳を放つ。

 ヘラクレスはしかめっ面を浮かべたが、即座に強烈なミドルキックを入れて来た。あたしは脇腹に掛かる質量を受け止め、分厚い胴体へ左右の連打を叩き込んだ。

 今度は多少は効いたのか、ヘラクレスは腹部を押さえて後ずさった。

「小娘め、ネメアーの獅子よりもよほど手ごわい」

 ヘラクレスは白い歯を剥き出して笑うと、両手を天に突き上げるように掲げ、ぐいっと左右に引き下ろした。ぱきぱきぱきと骨の鳴る音が聴こえた。真っ赤な筋繊維が荒縄のように表面に浮き出した。被っていた獅子の兜がじわじわと侵食し、口元だけを残してヘラクレスの全身を獣毛が覆った。

〔獣人化モードか〕

 男の声があたしの頭の中で呟いた。

 ヘラクレスは四足獣のように身を屈めると、一気に距離を詰め、鋭く伸びた爪をあたしの身体に喰い込ませた。あたしは反射的に背中を仰け反らせ、ヘラクレスを持ち上げて真後ろへ放り投げた。ごろごろと床を転がる毛むくじゃらの巨体へ、振り向きざま踵を打ち込み、さらに拳を固めて機関銃のように頭部へ六発打ち込んだ。

 だが、ヘラクレスの身体はびくともしない。黒い鬣にたてがみ覆われた首をこきこきと鳴らすと、何事もなかったように立ち上がった。

「ヤベーよ、ヤベーよ!」

 と叫ぶ、新造叔父さんの声が聞こえた。


〔さすがに頑丈だな。裏技を使用するかな〕

 こっちは殺人ロボットに殺されかけているというのに、頭の中の声はやけにのんびりとした口調だ。

「何でもいいから早くしてよっ!!」

 イラついたあたしは、頭の中の男に向かって叫んだ。

〔ルーズソックス形態、発動〕

 という男の指令で、あたしの履いていた黒のニーソックスが白色に染まり、ボリュームのあるだぼだぼの靴下に変わった。

「何よこれ、ダサ……」

 でも、ルーズソックスの力は半端じゃなかった。再び突進してきたヘラクレスに回し蹴りを放つと、ブロックした左腕ごと粉砕した。

「ぐわぁっ!?」

 と苦痛の声を上げるヘラクレスの身体に、すかさず左右の蹴りを連射した。ニーソックスの時とはまるで威力が違う。ルーズソックスの攻撃が当たるたびに、相手の骨が確実に砕けていく感触があった。

 全身の骨を砕かれたヘラクレスは獣人化も解け、立っているのが精一杯のようだ。

〔とどめは、下丹田に貫手を打ち込め!〕

「ゲ、ゲタンデン?」

〔ああすまない、ヘソの下辺りを思いっきり打ち抜くんだ。ナノロイドのコントロール・デバイスはそこにある〕

 全く意味が分からなかったが、ここまで来たらこの不思議な男の声を信用するしかない。

「うおおおおぉぉぉぉぉっ!」

 あたしは右腕を後方に引き絞り、まっすぐに伸ばした四本の指を、渾身の力を込めてヘラクレスの下っ腹に打ち込んだ。

 切っ先はその分厚い腹筋をぶち破り、背面に突き出した。

「こ、この忌々しい石めっ!」

 断末魔の台詞を吐き、ヘラクレスの肉体は赤い砂となって崩れた。

「一体、あなたは何者なの?」

 と、自分の頭に問いかけると〔私の名はウラノス……〕とだけ言い残し、男の意識は頭の中から消えていった。

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