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一、 ゴリンピックの中止

「な、何ですとっ!?」

 少し前までにこやかに話していた総理の口調が、突如として険しいものに変わった。電話の相手は国際ゴリンピック委員会のストーム会長のはずだから、懸念していた事態が現実のものとなったに違いない。

 あたしは新しく淹れたお茶を執務机の上に置いた。

「いや、ですから、コロリウイルスの対策は充分なものだと、何度も、何度も、ご説明を……はい、はい、ええ、確かに、その件につきましては政府としても申し訳なく思っておりますが、はい、はい、ですから、外部の第三者委員会を設置し、速やかに責任の所在を明確にしてですね……あっ、ちょっ、ちょっと、会長、待ってくださいよぉ!」

 と懇願した直後に会話は途切れてしまい、総理は力なく項垂れた。

 どうやら一方的に電話を切られたらしい。

 外交ホットラインの真紅の電話を元に戻すと、総理は身体をがくがくとふるわせながら厳めしい形相で捲し立てた。

「畜生めっ、IGCの鬼どもめっ、ゴリン誘致にどれだけの裏金を払ったと思ってやがるんだ。こっちは自文党内に逮捕者まで出して金を融通したってのに、あのスカしたナチ野郎めっ、いざとなったら電話一本で断りやがったっ!!」

 もはや聞くまでもないけど、職務上確認しないわけにもいかない……。あたしは「死ねっ、死ねっ、死ねっ!」と呪詛の言葉を吐き続ける矢部総理に、電話の内容を問い正した。

「ゴリンピックの中止が決定したんですよね?」

 総理は泣き出しそうな顔でこちらを振り向くと、あたしの腰に縋り付き、頬を擦りながらうんうんうんと頷いた。

「ヤベーよ、ヤベーよ、紫音しおんちゃん、どーしよー!!」

「叔父さん、落ち着いてくださいっ!」

 いつものように、あたしは総理の頭を撫で撫でして落ち着かせる作戦に移行した。こうして暫くよしよしとしてやれば、総理大臣としての冷静な頭脳を取り戻せるに違いない。


 あたしの名は乃村紫音。

 名字は違うけど、内閣総理大臣である矢部新造の姪っ子に当たる。

 大学を出てから何年も無職のプー子だったあたしを、無理やり秘書の一人として雇ってくれた事にはとても感謝してるんだけど、こう連日のように泣き付かれては堪ったもんじゃない。

「決まった事は仕方がないですよね。兎に角、記者会見の準備を……」

 もう落ち着いてきただろうと本題を切り出してみるが、

「えー、やだぁー、マスゴミの連中、ほれみた事かとばかり、鬼の首を取ったように責任追及してくるに決まってるよぉ!」

 と、途端に駄々をこね始めた。

 今回はショックが大き過ぎたのか、なかなか元に戻らない。

 普段は威厳を湛える大人物だというのに、子どもの頃から見知っているあたしの前だと、途端に幼児退行しやがる。とはいえ、ここ一年、続出するトラブルのおかげで、まともに休みを取っていなかったのだから仕方ないか……。

「よちよち、じゃあ少しお寝んねしよっか?」

 あたしは側にあったスツールに座って膝枕をしてやり、一度完全に幼児退行させてから人格を再構築する作戦に切り替えた。

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