「ごちそうさまでした、美味しかったです」
「良かった。また来てね」
にこやかな笑顔でマスターと奥さんが見送ってくれた。
「あーすっごくおいしかったー!今日ここ連れてきてもらえて嬉しい。」
「喜んでもらえて良かった。アットホームで好きなんだよね。今日は個室だったけれどカウンターで常連さんと話すのもいいんだよ」
「またあのお店行きたいな」
「ああ、また行こう。俺がいない時も良かったら顔だしてあげて」
鈴木が今日この店を選んだのは一つの決意だった。
今までは女性関係は出世に響くと思い、会う時はいつも価格帯の低い個室のチェーン店だ。個室なら誰かに会う心配もなく万が一会ったとしても安さが売りの居酒屋ならデートと思われにくい。そして早苗は同期なので弁明もしやすい。
しかし、今は早苗と『噂を気にしなくてもいい関係』に進展することを望んでいた。
そして帰国の目途がついた大事な話をするからこそ、隣の客の会話が聞こえる壁の薄い個室ではなく落ち着いた雰囲気の店で伝えたかった。
早苗からいい返事を貰えたことで安堵し、一人でも顔を出すように提案した。
将来を考えている相手だからこそ、自分の馴染みの店をもっと知ってほしいと思った。
夏休み期間中は、早苗の家に滞在する。
部屋に入ると、以前と少し変わった雰囲気が漂っていた。元々、物が少なく整理されていたが何が変わったのだろうか…。
最初は分からなかったが、冬に来た際はカーペットに山積みになっていた本がなくなっていることに気が付いた。年明けから読書にあけくれたというので読み切ったのだろう。
鈴木が読む本はビジネス書や参考書ばかりなので、どんな本が話題か知らない。
早苗はどんな本を読んでいるのだろうかと本棚に目を向けると、おもてなし料理・おうち居酒屋レシピ、和食の基本など料理関連の本が増えている。
鈴木は、その中から『おうちフレンチ』と書かれた料理本を手に取った。
「なんか本増えた?前はなかったよね?」
「ああ、それは…浩太が頑張ってるのを見て、私も何か新しいことを始めたくなったんだ。それで料理教室に通い始めたの。」
「料理教室!?」
「うん。料理の幅を広げたくて」
新しい食材との出会い、初めての調理法、そして料理を作ることの楽しさなど、早苗は目を輝かせながら料理教室での出来事を話し始めた。
「野菜も切り方によって食感とか向いている料理が変わるんだって。
例えば、ピーマンだとチンジャオロースとかシャキシャキしたい場合は横切りで、苦みを減らしたい場合は縦切りがいいんだって。あと種も抗酸化作用が強いから、気にならなけば一緒に食べるとアンチエイジングにもなるみたい。私、知らなくて今まで捨てちゃってた。」
鈴木は、そんな早苗の姿を愛おしい気持ちで見つめていた。
「早苗、すっごく楽しそう。」
「うん、今すごく楽しい。いつも同じようなメニューや味付けだったから新しいこと知って色々試したくなってる。最近はSNS見ていても食材やお皿とか気になりだしたんだね。」
「それなら明日、お皿とか食器見に行く?」
「本当!?嬉しい!!行きたい!!!」
早苗は周りを気にするタイプだったため、自分からどこか行きたいと言うことがあまりない。誰かが提案した場所に行きたいといつも笑顔で返答していた。
しかし、今はいつもより声のトーンが明るく高い。きっと早苗の本心なのだろう、鈴木は早苗が思っていたことを引き出せたことが嬉しかった。
「あと……浩太にも色んな料理食べて欲しくて。向こうで手料理食べる機会ないだろうから帰ってきた時くらいは作りたいなって。」
少し頬を赤らめながら言う早苗を見て、鈴木は胸が熱くなる。優しく自分の胸へ引き寄せた後、強く抱きしめる。二人はしばらくの間、互いの温もりを感じていた。
「ありがとう。嬉しい。はやく食べてみたいな……今すぐにでも食べたい気分。少しお腹の空き作っておけばよかった。」
残念そうに言う鈴木が微笑ましかった。
「そんな慌てなくてもいつでも作るよ。今日のお店も、味付けとか勉強になったから連れてってもらえて嬉しい。それに、明日からも一緒にいるんだし。明日は家でご飯にしよう、何か作るよ」
『いつでも、か……。』
何気ない一言が鈴木の胸にじんわりと広がり心を温かく包み込む。
「ありがとう、楽しみにしている。」
早苗の微笑んだ顔と潤んだ瞳を見て、吸い込まれるようにそっと唇を重ねる。久しぶりの再会にお互いを確かめあうように再び抱きしめあった。