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第10話 旅立ち

あっという間に出発の日が来た。

鈴木以外にも同行する社員がいるため、空港への見送りは遠慮することになっていた。その代わりに、前日の夜は早苗の家で過ごすことになった。



鈴木の部屋は、家具や家電は残してあるが日用品はほとんど処分してウィークリーマンションのようになっていた。二人で過ごした部屋は物がなくなり、がらんと空虚感のある部屋となりその光景を見るのは少し寂しかった。





「楠木、これ。合鍵、渡しておくからよろしく頼むな」

鈴木はそう言って、早苗に合鍵を渡した。

「うん。鈴木も気を付けて」



一ヶ月前に付き合い始めたばかりで同期だった頃の習慣が抜けず、未だに名字で呼び合っていた。下の名前で呼ぶのは何となく気恥ずかしかった。





鈴木の海外出張は、数ヶ月に一度は帰国できるとはいえ、約二年になるらしい。



高校卒業前に付き合い始めた地元の同級生だった人と会う頻度も数ヶ月に一度だったので状況はあの時と変わらない。遠距離恋愛は二度目だ。



それにしても、なぜ男たちは離れるギリギリになって告白をしてくるのだろうか。早苗は過去の経験を思い出し、少しばかり皮肉な気持ちになった。



いつか…その気になったら言おう。いずれはやろう。そう思っていたけれど気付かぬふりをして、終わる直前になってようやく「そろそろまずい」と危機感を覚えるのだろうか?まるで夏休みの課題研究を最終日に慌てて取り組む学生のようだ。「私は読書感想文か…」早苗は心の中で小さく突っ込みを入れた。





前夜、二人は早苗の家でゆっくりと時間を過ごした。

夕食を食べながらいつものように話をした。

そして、夜が更けていくにつれて二人の距離は自然と近づいていった。

お互いを求め合うように強く抱きしめ何度も何度もキスを交わした。



相手の温もり、優しい眼差し、甘い吐息。全てを刻むように早苗たちは深く、深く、抱き合った。



朝が来てカーテンの隙間から光が差し込む。

鈴木はすでに起きていて、コーヒーを用意してくれた。

「おはよう」鈴木は優しく微笑みながら、早苗に声をかけた。

「おはよう」早苗は眠い目を擦りながら、ベッドから起き上がった。



朝食を済ませ、出発の時間が近づいてきた。

玄関で、鈴木は早苗を優しく抱きしめた。

「じゃ、行ってくるわ」

「鈴木なら大丈夫。行ってらっしゃい」



早苗はそう言って鈴木の背中をそっと押した。

玄関前で、短い抱擁と軽いキスを交わした。

昨夜のような深く熱いキスはしなかった。



それはお互い離れた後にその感触を思い出して地に足がつかなくなってしまうことを無意識のうちに避けているようだった。



あっさりと、でも温かい別れだった。

鈴木がドアを開けて外に出ると振り返り手を振った。

早苗も笑顔で手を振り返し、鈴木の姿が見えなくなるまで早苗は玄関に経立っていた。



「鈴木なら大丈夫。行ってらっしゃい」

今度は自分に言い聞かせるようにそっと小さく呟いた。





鈴木が出て行った後の部屋に戻った。

昨日まであった鈴木の温もりは、もうそこにはなかった。部屋には朝の静けさが満ち、テーブルの上には飲みかけのコーヒーが残っていた。

いつもは一人なので、これが日常のはずなのに鈴木がいなくなると何だか切なさを覚えた。



早苗はそれらを片付けながら鈴木との日々を思い出していた。

夕食の時、鈴木が嬉しそうに豚汁を飲む姿。隣で小さく笑う声。そして、夜、優しく抱きしめられた時の温もり。それらは全て、早苗の心の中に、大切な記憶として刻まれていた。



早苗は、鈴木から渡された合鍵を手に取った。

冷たい金属の感触が手のひらに伝わってくる。鍵を見つめていると、鈴木の顔が浮かんできた。優しい笑顔、真剣な眼差し。早苗は、鍵を握りしめ、そっと胸に当てた。

「待ってるよ、頑張ってきてね。鈴木なら大丈夫」



2020年1月。鈴木は異国の地へ旅立っていった。






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