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第9話 鈴木の気持ち④

付き合ってからも、楠木の様子は普段と変わらなかった。

仲のいい同僚としての距離感を保っていたし、相変わらずメールもそっけなかった。

仕事で顔を合わせても、以前と変わらずに業務連絡を交わし、休憩時間に会えば話す程度だ。周囲の同僚たちも、二人の関係が変わったことに気づく様子はなかった。

それは楠木の希望でもあった。



「プライベートと仕事はきちんと分けたい。周りにも気を遣わせてしまったら悪いし、付き合っていることは秘密にしよう。」と楠木から提案されたのだ。社内同士でも堂々と交際宣言している人たちもいるが、上手くいっていてもそうでなくとも周りは多少なりとも気を遣う。その意見に俺も賛成だったし、周りのことを優先させるのが楠木らしいと思った。





しかし、休日に二人で会うオフモードの楠木は、普段とは違う表情を見せた。

車で家まで迎えに行くと、階段を急いで降りて駆け寄ってくる。そんなに急がなくても大丈夫なのにと思いながらも、楽しみにしていてくれた様子が伝わり嬉しくなる。





スーパーで一緒に買い物をし、夕飯は楠木が作ってくれた。

本当は、もっと遠出もしたかったかもしれないのに、海外への引っ越し準備や荷物が増えないように配慮しているのが伝わりありがたかった。





残りの引継ぎ業務もしっかりと終わらせてから出発したいと思い念入りに行った。

後任は、年上のリーダー職の人だった。つまり、年や社歴は上だが立場としては自分の方が上というやりづらい状況だった。

海外部門といっても、その国々と特性や案件によって出てくる専門用語も業種も違うため一から覚える必要があった。その環境や業種に慣れることに想定以上に時間がかかり引継ぎは難航した。





海外に行ってからではすぐに対応もできず支障も大きいと判断し、俺は後任の引継書の加筆と上長への簡易的な引継書の作成にあけくれていた。

本来なら、出発前は比較的時間に余裕があり出発準備のため定時に帰り1週間前は出社をしないことも出来るはずだった。しかし、引継ぎが難航し残業になることもしばしばあった。







楠木との時間に充てたかったが、理解を示してくれ平日に夕食の支度をしてくれても遅くなり一緒に食べられないことを伝えると、

「了解。今日は帰るね。シチュー作ったから良かったら温めなおして食べて。お仕事おつかれさま」とすぐに返信が来る。楠木の優しさが、心に沁みた。







ご飯を作って待たせていたのは申し訳ない気持ちになるが、出発前の仕事はまだ残っていた。このまま中途半端で投げ出したくなかったので仕事に励んだ。



そんな気持ちを汲み取ってか、遅くなると連絡しても怒ったり責めることもなく、先ほどのような労わりの返事が来る。





「家で待っているね」というのは、待たせているから早く帰らなくてはというプレッシャーになるので、あっさりと帰る心遣いがありがたかった。

内助の功とは、楠木みたいな人のための言葉ではないか。俺は本気でそう思っていた。





「鈴木の仕事の邪魔はしたくないから」とその心遣いがとても嬉しかった。

本音を言うと、たまには今日は一緒に過ごしたいから遅くなるけど待っていてくれたら…と思う夜もあった。しかし、自分の都合に合わせてもらってばかりなので楽しみは休日に取っておくことにした。





また、俺の好みの味を覚えたいと料理を作るたびに味見を求められた。

味見をしなくても十分美味しいのだが、「鈴木の好みの味で作れるようになりたいからもっと教えて」と真剣な眼差しで俺を見つめる楠木が、たまらなく可愛かった。







豚汁が好きというと急に出る回数が増えたことも、卵焼きは出し巻きではなく甘めが実家の味だと知るとみりんや砂糖を入れて練習するところも愛おしい。





楠木は、インターネットでレシピを検索したり、計量スプーンを買ってきて分量を少しずつ変えるなど試行錯誤しながら、俺好みの味を再現しようとしていた。その一生懸命な姿を見ていると、楠木を誰にも渡したくないという気持ちがますます強くなっていった。





料理をしている楠木を後ろから抱きしめ首筋にキスをしたり、そのまま押し倒してしまうこともあった。

「…あぶない」とまんざらでもない表情で素っ気なく返してくるところが、より意地悪したくなって俺の心を刺激した。楠木の柔らかい髪の感触、温かい肌の温もり、甘い香りが、理性を失わせた。









”人前”で手を繋いだり、いちゃつくのは嫌だ。と言っていた楠木だが、俺の部屋で2人きりの時は、寝る前に指や足を絡めてきたり、胸の中に頬をうずめて甘えてくることもあった。

意外なギャップも夢中になった。





ある日の食後にソファでくつろいでいると、隣に座り指と指を絡めてきた。

甘えたいんだなと分かったが俺は意地悪をしたくなった。



「ん?」と返すと、何か分からないと言った態度で返す

「ん?」楠木は照れながら俺のマネをする

「どうしたんですか?」と聞き返すと、

「……。いじわる」と困ったような顔をしてからキスをして膝の上に乗ってきた。







楠木の愛情に応えたくて、俺の膝にまたがった楠木の背中に手を回し、背中、首すじ、耳を猫の散歩のように自由気ままに這わせる。

ゆっくりと舌を絡ませたら、舌や下唇を舐めたり吸ったり優しく上下させた。



「あっ…ん…ん…」とぴくんぴくんと反応をする。



甘えたがりなのに、すぐに反応して恥ずかしそうに顔を隠すので、より一層いじめたくなった。





入社してしばらくして同期たちは「楠木ちゃんは、性格もよくて頼りになる存在だけど大きくて異性とか恋愛対象ではないな」と言い内心苛立った。





俺は、普段のクールな楠木からは想像もできない、好きな男のために味付けを一生懸命覚えようとする姿や甘えてくる姿、そして妖艶に喘ぐ”女”の楠木に魅了されていた。今は、周囲が楠木の魅力に気づかなくてよかった。知っているのは自分だけ。そして今後も誰にも知られたくないと強く思った。







一人の時の部屋は、単なる休息の場所だった。

仕事で帰りも遅いことが多かったため、コンビニで総菜を買い、夕食というには遅い時間に食べてすぐに布団に入り、休日は会社や仕事関連のセミナーなど将来のための時間に使っていたので家で過ごすことは少なかった。料理も得意ではなく、体型も気になりだしたので揚げ物はやめてカロリーが低いものを選び小腹を満たす程度で済ますことが多く家で満足する食事をすることはほとんどなかった。





しかし、楠木と付き合い始めてからは違う。

野菜中心の彩りのいい料理と電子レンジで温めたものとは違う、ほかほかで温かい出来立ての料理が食卓に並ぶ。



また寒いとエアコンをつけて厚着で過ごしていたが、今は厚着をしなくても腕には温かい感触が側にある。楠木の体温や俺のために作る料理で、孤独で無機質だったこの部屋は熱のある温かい部屋へと変わっていった。





仕事にも理解があり、人知れず努力してきたことも分かってくれている。

俺は今、とても幸せだ。それと同時に、こんな幸せが待っているならもっと早く楠木に自分の気持ちを伝えればよかったと後悔もした。もし、もっと早く告白していればもっと長い時間を恋人として過ごすことができたのに。





しかし、後悔しても時間は戻ってこない。だからこそこの限られた時間を楠木と精一杯楽しもうと決めた。





出張が終わり、日本の勤務に戻った際は…その時は…。



まずは、今まで出来なかった旅行に行こう。

楠木と二人、旅館でのんびりと温泉に浸かり美味しい料理を食べる。夜は部屋でまったりと過ごし、その時に指輪を渡す。そんな未来を想像した。





俺は、楠木と一緒にご飯を食べることが、「日常」になることを心から願った。

メールではなく、朝起きて「おはよう」と挨拶をし、夜眠る前に「おやすみ」と言う。

それが当たり前の日常になることが、鈴木の一番の願いだった。





2020年1月、俺は旅立つ。仕事の成功と2年後の帰国した際の楠木との今後を夢見て。






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