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第8話 鈴木の気持ち③

海外出張が決まり日本にいる時間が残り僅かとなった今、やり残したことがあるとすれば、それは楠木への想いを告げることだと思った。



このまま海外へ旅立ってしまっては、戻ってきた時に彼女に恋人ができているかもしれない。いや、もしかしたら結婚して夫がいるかもしれない。

そう想像するだけで、いてもたってもいられなくなった。胸の奥が締め付けられるような、焦燥と不安が入り混じった感情が、俺を突き動かしていた。



「楠木に伝える。でもただ、飲みに誘うだけではいつもの飲み会と変わらない。それでは、俺の気持ちに気づかないだろう。何か、楠木を意識させるきっかけが必要だ…」自問自答を繰り返した。

どうすれば、自分の気持ちを楠木に伝えることができるのか。気づいてもらえるのか。彼女の心を掴むことができるのか。


様々な方法を考え、頭の中でシミュレーションを繰り返した。そして、ある時、ふと頭に浮かんだのが「合鍵」だった。


合鍵…。それは、恋人同士のような、特別な関係でなければ渡さないもの。それを預かってほしいと頼まれたら、さすがの楠木も、何かしら意識するはずだ。そう考えた。


賭けだった。上手くいけば楠木との関係を進展させることができるかもしれない。しかし、もし断られたら…。その時は、潔く諦めようと覚悟を決めた。

しかし、いざメールを作成しようとすると、手が止まってしまった。何度も文章を書き直し、送信ボタンを押せずに、数日が過ぎていった。自分の気持ちを伝えることは、こんなにも勇気がいることなのか…。自分の臆病さに呆れながらも、楠木への想いを諦めることができなかった。



そして、ついに意を決してメールを送信。どんな返信がくるか落ち着かなかった。

そわそわしていて、何度も受信ボックスの画面を更新ばかりしていた。

7分後、新着メール受信のマークが表示されドキドキしながらメールを開く。



「Re:了解。日程はお任せ」



………。



肩透かしをくらったかのような、あっけない返信だった。

俺の期待は、見事に裏切られた。

楠木は、合鍵を預かることを了承したものの、特に何も感じていないようだ。

まるで、頼まれごとを快く引き受けた、というようなそっけない返信だった。




数日後、約束の居酒屋で楠木と合流した。

いつものように、他愛のない話で盛り上がり楽しい時間を過ごした。

しかし、楠木の態度はいつもと変わらなかった。このまま解散しては駄目だと昔の同期の話を持ち出したり話を引き延ばした。次は、何を話そうかとトイレで作戦会議をしていた。


そして、いつもの調子で「鈴木なら大丈夫、頑張って」と見送るだけの言葉。

その言葉を聞いた瞬間、自分の思惑が全く伝わっていないことを痛感した。


『おい、楠木!行ってらっしゃいだけかよ。他にあるだろう。もっと合鍵預かるってことに疑問や期待を持ったり、なんかもう少し…なんというか…今日はいつもと違うぞ。的なものがないのかよ』


まるで、厚い壁に阻まれているかのように、楠木の心に届いていない。

こんなにも伝わらないのか。もしかして楠木は俺を異性として見ていないのか?

悔しさとあまりにも楠木が鈍感なので少しの怒りを感じた。




トイレから席に戻る際、俺はわざと楠木側の扉を開けた。

それは、ほんの少しの意地悪な抵抗だった。


楠木は、突然開いた扉に驚いていたが酔っぱらっていると勘違いしたのだろう。

「ん?もー鈴木?酔っぱらった?鈴木の席、反対側だよ??」

少し冗談めかして言う楠木に、抑えきれない感情が爆発しそうになった。



腹が立ち楠木の腕をギュッと掴んだ。

「…知ってる!知ってて開けたの!楠木があまりにも分かってないから隣に来た。お前は全く分かっていない!!!どんだけ鈍感なんだよ。家を知っているやつなんて他にもいるけど、俺は楠木に渡したいの!待っていて欲しいの。な、その意味分かる?」



ほとんどやけくそだった。

これでダメだったら、ひっそりと日本を旅立とう、傷心は新天地で癒そうと思った。

しかし、楠木は少し上ずった声と照れた表情で「えっ、あ、はい…。」と返してきた。



その言葉を聞いた瞬間、『はい…だって?分かっているのか????』

今まで抑えてきたブレーキが外れ、衝動的に楠木を抱きしめた。



すると、おそるおそるといった形で楠木も俺を抱きしめてきた。

予想外の展開に、衝撃が走ったがこのまま喜んでいるだけではいけない…。

俺は確認することにした。

「あのさ…俺、楠木のこと抱きしめたんだけど、楠木も手を回したってことは、同じ気持ちだと思っていいんだよな?」


こんな言い方しかできなかったのは、フラれるかもしれない…と恐れていたからだと思う。「いや、そんなつもりじゃ…」と言われたら、抱く力を弱めて「あ、海外行くから挨拶の練習か」とか、苦し紛れでも誤魔化せるかもしれない。瞬時に、そんな言い訳が頭をよぎった。



普段は仕事でもうまくいくと強気だったが対楠木のことになると弱気で悪い想像ばかりしてしまう自分がいた。しかし、楠木は俯きながら、小さく首を縦に振った。



その瞬間、安堵と喜びが溢れ出した。

やっと伝わった。やっと届いた。そんな思いで、まるで子供の頃大切にしていた宝物に触れるように、背中にあった手をゆっくりと楠木の頬の方へ伸ばしていった。



俺の指が楠木の背中から首すじに触れた瞬間、ぴくりと反応し

「ん、んっ…」と小さな吐息が漏れた。


それは、今まで聞いたことのない楠木の甘く女性らしい声だった。

見つめあってからは引力のように導かれて口づけをした。




俺はさっきの甘い声を思い出し、楠木の口の中に舌を入れた。

楠木も応えてくれ舌と舌が絡み合う。その瞬間、抑えていた感情が、一気に溢れ出した。

もう我慢できない、もっと触れていたい、もっとこの声を聞いてみたい、もっと近くにいたい、もっと、もっと…という衝動に駆られた。


そのうち、上顎や歯を舐めたり下唇や舌を吸うなど激しさを増していった。



「ん…ふ…んん…」声にならない声が早苗から漏れる。


このままどうにかしてしまいたい衝動に駆られたが、一旦唇を離し唇の中央を人差し指で触れ「しっー」というポーズをした。


ここは居酒屋。薄い壁とふすまだけ。しかも天井は吹き抜けになっている。楠木のこの声を誰にも聞かせたくなかった。


楠木は声が漏れないように我慢した様子で、でも唇を離すことはせずに激しく舌と舌を絡めあう情熱的なキスを続けた。




口を離すとお互い息も乱れいる。「はぁ…はぁ…ふ…ありがとう」と言うと、早苗は脱力したように表情で微笑み返してくれた。




こうして、楠木と新しい関係が始まった。海外出張が決まり日本を経つ前に一番やりたかったこと…それがようやく叶った。これからは、楠木を想いながら、海外での仕事に打ち込むことができる。この時の俺は未来への希望に胸を膨らませていた。




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