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第1話



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「お待ちくださいませ、サクラさま!」


 サクラが座っていた椅子から立ち上がろうとすると、ヴァルカに声をかけられた。


「……ねえ、ヴァルカさん。もう十分だってば。そろそろ行かないと遅刻しちゃうから」


「いいえいいえ! あと少しだけ、あと少しだけ整えさせてくださいませ」


 ヴァルカが手に櫛を持って、朝から大騒ぎしている。

 サクラはヴァルカに肩を押されて、椅子に座りなおした。


 サクラの目の前には鏡台がある。

 ヴァルカはサクラの背後に立ってじっと鏡をみつめていた。

 念入りにサクラの髪をとかしながら、ああでもないこうでもないとぼやいている。


「すごく綺麗になっているよ。お化粧もばっちりだし、髪もさらっさらだもん」


「まあまあ、身だしなみはいくら整えたって損はございません」


「だからって遅刻しちゃったら駄目じゃない?」


 サクラはそう口にしつつも、ヴァルカの好きにさせた。

 こうして誰かの面倒をみていることが、ヴァルカの生きがいなのだということは理解している。


 サクラはちらりと横目で時計を確認した。

 自宅をでなければならない時間まで、あと10分くらいは余裕がある。

 サクラは諦めて、あと数分程度ならヴァルカの人形でいようと決めた。


「ヴァルカ、いい加減にしてください。もう十分でしょう」


 いくら待っても玄関までやってこないサクラを、クロビスが迎えに来た。

 クロビスはサクラのいる部屋の入口で、面倒くさそうに腕を組んでいる。


「で、ですが旦那さま、領主さまにお呼ばれしていらっしゃるのでしょう?」 


「呼ばれているといっても、私的な茶会ですよ。そこまでかしこまる必要はありません」


「ですがですが……」


 ヴァルカが言葉を続けようとしているところへ、クロビスがやってきて櫛を奪った。

 クロビスはサクラの背後に立つと、じっと鏡を凝視しはじめる。

 サクラと鏡越しに視線が合うと、彼はにやりと笑った。


 サクラは嫌な予感がした。

 慌てて立ち上がろうとする前に、背後から腕をまわされてがっしりと顎を掴まれた。


「……あのさ。ヴァルカさんがいるのわかっている?」


「そういうことを忘れてしまうくらい、今日のあなたも魅力的だってことですよ」


 クロビスが噛みつくようにキスをしてきた。

 サクラはため息をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。

 クロビスを振り返ると、ぎっと睨みつけた。


「あなたは前から気取ったりすることはあったけど。最近はものすごくねちっこくなった気がするわ」


「そんなことはありません」


 クロビスはサクラに向かってさわやかに笑うと、ヴァルカに視線を向けた。

 ヴァルカに櫛を差し出しながら、声をかける。


「もう行ってもよろしいですね?」


「はいはい! 仲がよろしくてけっこうですわ。いってらっしゃいませ」


 ヴァルカは元気よく返事をしながら櫛を受け取ると、頭を下げてきた。

 クロビスはサクラの手を取ると、さっさと歩きだす。 

 玄関の扉を開けて外に出たところで、サクラはクロビスに声をかけた。


「ヴァルカさん。少し前までは老い先短いとか言っていたくせに、いまは婆やって呼ばれるまで死ねないって張りきっちゃってるよ」


「また気の早いというか、なんというか。気力が戻ったのはよいのですが、考えものですね」


「でしょう? こういうセンシティブなことであまり期待させても悪いから、ところ構わずベタベタしてくるのやめてほしいなって」


「……せんし、てぃぶ?」


 サクラとクロビスは、話をしながら城へ向かう。

 街の中は活気であふれていた。

 つい先日、相次いで稀人の襲撃があったとは思えない。


「あら、サクラさん。こんにちは! 今日は先生とご一緒なのね」


「こんにちは。そうなんですよー。たまにはね」


 すれ違った街の住民に声をかけられた。

 笑顔で挨拶を交わしていると、隣でクロビスがなにかつぶやいていた。


「……あなたがところ構わず人をたらしこまなければ、私だってちょっかい出したりしませんよ……」


「どうしたの? なにか言った?」


「いいえ、なんでもありませんよ」


 クロビスが大きなため息をつく。

 サクラはそんなクロビスを首をかしげて見上げた。

 そうこうしているうちに、城門までたどり着いた。


「あ、サクラさんこんにちはー」


「こんにちは、サクラさま」


 声をかけてきたのは、いつもの警備兵二人組だった。

 彼らはすぐに兜を取り外すと、満面の笑みで駆け寄ってくる。


 サクラは足を止めて警備兵の二人と挨拶を交わす。

 すると、またクロビスが隣でぶつくさとなにかをつぶやいた。


「……ほら。こうしてあなたがたらし込むから、こっちは気が気じゃないんですよ……」


「ねえ、さっきからなんなの? 言いたいことがあるならはっきり言ってよ」


「いいえ、言ってませんよ。ほら、早くアリエノールさまのところへ行かないと遅れますよ」


 クロビスは機嫌悪そうに言うと、強引にサクラの腕を引いた。

 彼はさっさと城門脇の通用門に向かって歩き出す。

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