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「お待ちくださいませ、サクラさま!」
サクラが座っていた椅子から立ち上がろうとすると、ヴァルカに声をかけられた。
「……ねえ、ヴァルカさん。もう十分だってば。そろそろ行かないと遅刻しちゃうから」
「いいえいいえ! あと少しだけ、あと少しだけ整えさせてくださいませ」
ヴァルカが手に櫛を持って、朝から大騒ぎしている。
サクラはヴァルカに肩を押されて、椅子に座りなおした。
サクラの目の前には鏡台がある。
ヴァルカはサクラの背後に立ってじっと鏡をみつめていた。
念入りにサクラの髪をとかしながら、ああでもないこうでもないとぼやいている。
「すごく綺麗になっているよ。お化粧もばっちりだし、髪もさらっさらだもん」
「まあまあ、身だしなみはいくら整えたって損はございません」
「だからって遅刻しちゃったら駄目じゃない?」
サクラはそう口にしつつも、ヴァルカの好きにさせた。
こうして誰かの面倒をみていることが、ヴァルカの生きがいなのだということは理解している。
サクラはちらりと横目で時計を確認した。
自宅をでなければならない時間まで、あと10分くらいは余裕がある。
サクラは諦めて、あと数分程度ならヴァルカの人形でいようと決めた。
「ヴァルカ、いい加減にしてください。もう十分でしょう」
いくら待っても玄関までやってこないサクラを、クロビスが迎えに来た。
クロビスはサクラのいる部屋の入口で、面倒くさそうに腕を組んでいる。
「で、ですが旦那さま、領主さまにお呼ばれしていらっしゃるのでしょう?」
「呼ばれているといっても、私的な茶会ですよ。そこまでかしこまる必要はありません」
「ですがですが……」
ヴァルカが言葉を続けようとしているところへ、クロビスがやってきて櫛を奪った。
クロビスはサクラの背後に立つと、じっと鏡を凝視しはじめる。
サクラと鏡越しに視線が合うと、彼はにやりと笑った。
サクラは嫌な予感がした。
慌てて立ち上がろうとする前に、背後から腕をまわされてがっしりと顎を掴まれた。
「……あのさ。ヴァルカさんがいるのわかっている?」
「そういうことを忘れてしまうくらい、今日のあなたも魅力的だってことですよ」
クロビスが噛みつくようにキスをしてきた。
サクラはため息をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。
クロビスを振り返ると、ぎっと睨みつけた。
「あなたは前から気取ったりすることはあったけど。最近はものすごくねちっこくなった気がするわ」
「そんなことはありません」
クロビスはサクラに向かってさわやかに笑うと、ヴァルカに視線を向けた。
ヴァルカに櫛を差し出しながら、声をかける。
「もう行ってもよろしいですね?」
「はいはい! 仲がよろしくてけっこうですわ。いってらっしゃいませ」
ヴァルカは元気よく返事をしながら櫛を受け取ると、頭を下げてきた。
クロビスはサクラの手を取ると、さっさと歩きだす。
玄関の扉を開けて外に出たところで、サクラはクロビスに声をかけた。
「ヴァルカさん。少し前までは老い先短いとか言っていたくせに、いまは婆やって呼ばれるまで死ねないって張りきっちゃってるよ」
「また気の早いというか、なんというか。気力が戻ったのはよいのですが、考えものですね」
「でしょう? こういうセンシティブなことであまり期待させても悪いから、ところ構わずベタベタしてくるのやめてほしいなって」
「……せんし、てぃぶ?」
サクラとクロビスは、話をしながら城へ向かう。
街の中は活気であふれていた。
つい先日、相次いで稀人の襲撃があったとは思えない。
「あら、サクラさん。こんにちは! 今日は先生とご一緒なのね」
「こんにちは。そうなんですよー。たまにはね」
すれ違った街の住民に声をかけられた。
笑顔で挨拶を交わしていると、隣でクロビスがなにかつぶやいていた。
「……あなたがところ構わず人をたらしこまなければ、私だってちょっかい出したりしませんよ……」
「どうしたの? なにか言った?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
クロビスが大きなため息をつく。
サクラはそんなクロビスを首をかしげて見上げた。
そうこうしているうちに、城門までたどり着いた。
「あ、サクラさんこんにちはー」
「こんにちは、サクラさま」
声をかけてきたのは、いつもの警備兵二人組だった。
彼らはすぐに兜を取り外すと、満面の笑みで駆け寄ってくる。
サクラは足を止めて警備兵の二人と挨拶を交わす。
すると、またクロビスが隣でぶつくさとなにかをつぶやいた。
「……ほら。こうしてあなたがたらし込むから、こっちは気が気じゃないんですよ……」
「ねえ、さっきからなんなの? 言いたいことがあるならはっきり言ってよ」
「いいえ、言ってませんよ。ほら、早くアリエノールさまのところへ行かないと遅れますよ」
クロビスは機嫌悪そうに言うと、強引にサクラの腕を引いた。
彼はさっさと城門脇の通用門に向かって歩き出す。