クロビス、ノルウェットの男ふたりが、仕事をするためにでかけていった。
それからが、ヴァルカによるサクラの花嫁修業の本番だ。
朝食の用意など、序章に過ぎない。
まずは昼食の前までに、ヴァルカの指導をもとに、家中の掃除がはじまる。
家の外に出られるようにならなきゃいけないだとか、王を目指す件だとか、サクラにはそんなことで悩んでいる暇がない。
「……はあ、いい加減になにか行動を起こさないと。本当にこの家を追い出されかねないよね」
ほうきを手にして床を掃きながら、サクラはため息混じりにぼやいた。
サクラはそっと窓の外に視線を向ける。
そこからは、ひときわ大きな建物が見える。
クロビスとノルウェットが向かった領主の住む城だ。
軍医であるクロビスと、その見習いであるノルウェットは、城の敷地内にある軍施設で働いている。
「あそこ、ゲーム内でプレイヤーが最初に訪れることになる巨大ダンジョンなんだよね。はじめてプレイしたとき、クリアするまでに死んだ回数なんて覚えてないな」
ゲーム内でのダンジョン攻略における死亡回数は、一回や二回の話ではない。
二桁内におさまっていれば、御の字といったところかもしれないのだ。
どれだけの時間をかけてあの城を攻略しただろうか。
最初は理不尽すぎると思った。
どうしてこんな意地の悪いトラップを思いつくのだと、開発を呪ったりもした。
「それでも、楽しいから何回も挑戦したんだよね。ビルドを変えて武器を持ちかえて。何度も何度も……」
いつの間にか床を掃く手が止まっていた。
サクラはじっと城を眺めて、ぼんやりと考え込んでいた。
「いまの私の状況。ゲーム進行度的にはクロビスと敵対をすることは、まずないはず。とはいえ、いつまでもこの状態で良しとしているわけにはいかないよね」
クロビスの望みは、サクラがこの世界の王になることだ。
サクラの面倒をみてくれているのは、王の素質を持つ異世界人である稀人だからなのだ。
家の外にすら出ることのできない現状では、いつサクラを見捨てて新しい異世界人を探しに行ってしまうとも限らない。
いや、すでにもう探しに行っているかもしれない。
あのクロビスのことだ。ありえないことではない。
「料理はまずい、掃除もまともにできない。洗濯だって壊滅的って、専業主婦として終わっているもん。完全にクロビスの心を繋ぎとめておけてないよなあ」
仮に現状を恋愛シミュレーションゲームとして考えたとしても、クロビスのサクラに対する好感度が上がっているとは思えない。
BAD ENDルートまっしぐらといって差し支えないだろう。
サクラは恋愛シミュレーションゲームなどほとんどやったことはない。やったことはないが、BAD ENDルートの先に明るい未来がないことだけはわかる。
「愛想をつかされて追い出されるより先に、なんとかここを出て行く準備をしなきゃいけないのかな」
クロビスに縋りついて、なんとか好かれる。
そうすることで、この世界での命の保障を得る。
いくら自分の理想とする美女の姿でこの世界にきたといっても、元が社畜のゲーマー女子には無理なミッションだったのだ。
「……くやしいけど、こっちの方が彼のことを好きになっているまであるんだよねえ」
自身の思惑に反して、サクラの中でクロビスの好感度はうなぎのぼりだった。
仮面の下に隠されていた顔はイケメンで、完璧にサクラの好みの部類に入る。
それでいて軍医という特殊な職業なので収入があり、弟子や使用人を家族同然に扱うおおらかさがある。
ゲームシナリオ本編でクロビスの性格の難解さを知ってはいるものの、いまのところそれすら気にならなくなってきている。
そばで生活しているおかげで、クロビスの良いところが自然と目に入るのだ。
多少の嫌なところがあっても、はじめて会った日にサクラを背にモンスターと戦う姿はカッコよすぎた。
あの背中の頼もしさを思い出すと、少しばかりの嫌なことなんて帳消しになってしまう。
「このまま争いごととは、無縁で過ごせないかな」
この世界の状況がゲーム開始時と同じであるならば、サクラのいるこの大陸は戦争の真っ最中だ。
ゲームの開始地点であるこのあたり周辺の土地は、王都から遠く離れているので、まだ戦火は届いてはいない。
しかし、ゲーム主人公である稀人が存在しているのであれば、時間の問題だ。
「……この家でずっと、お嫁さんごっこをして暮らしていけるならいいのにな……」
サクラがそんな言葉を、ぽつりとぼやいた瞬間だった。