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第3話

「いってらっしゃいませ旦那さま」


 職務のために自宅をあとにしようとするクロビスを、サクラは玄関まで見送りにきた。


「いつも言っていますが、わざわざ見送りなんて必要ないですよ」


「私が好きでやっているの。……だって、婚約者っぽいでしょう?」


 サクラはクロビスの目の前まで、ステップを踏むようにからだを弾ませながら軽やかに歩み寄る。

 クロビスに仕事用の鞄を手渡してから、彼の耳元でこっそりと囁いた。


 ドラマや漫画で見たことがある。

 いかにも結婚したばかりの新妻的な立ち回り。


 我ながらこの振る舞いは前時代的な妻という自覚はある。

 だが、なにせこの世界は中世ヨーロッパの世界観がモデルのはずだ。

 ならば「お帰りなさいませ旦那さま。お風呂にしますか? ご飯にしますか? それとも……」的なやつが好まれるのではないのかという結論に至ったのだ。


 たしかに、この世界は魔法が使えたり、ドラゴンなどのモンスターが存在したりと、現実世界のヨーロッパとはまるで違う。

 ゴリゴリの剣と魔法のファンタジーRPG風異世界になるのだろう。

 しかし、こういった恋人や家族間における振る舞いの感覚は、現実世界と比べて誤差の範囲であると信じたい。


「いつまで経ってもろくに食事の用意すらできないことをごまかしたいのですか? こんなことで点数稼ぎをしなくても、家から追い出したりしませんよ」


「……あらら、やっぱり。今日のスープもおいしくなかったんだね」


 せっかくウキウキで新妻キャラを演じていたのに、クロビスの言葉でサクラはいっきに現実に引き戻される。


「昨日よりはマシですよ。包丁で野菜と一緒にまな板を切ったり、手に取っただけで皿を割ったり。それがないだけマシです」


「そっかー。味についての言及がないのはつらいなあ」


 サクラはがっくりと肩を落とす。


 この世界にやってくる前。

 社会人としてひとり暮らしをしていたサクラは、節約を兼ねた自炊をするタイプだった。

 週末になると、エコバッグを持ってスーパーに向かい、食材を大量に買い込んでくる。

 せっせと仕事の日のために、弁当用の総菜を作り置きした。

 どんなに仕事が忙しくても、帰宅したら必ず食事を作っていた。


 現実世界でのサクラの生活は、毎日同じことの繰り返しだった。

 朝起きて身支度を整えると会社に向かう。

 仕事が終わったらまっすぐ自宅に帰ってくる。


 社会人になってから、学生時代に親しくしていた友人とはどんどん疎遠になっていった。

 恋人はおらず、余暇はゲームをして過ごす寂しいひとり身だった。


 だからせめて、食事くらいは楽しみたかった。

 食事には絶対に手を抜かない。

 基本的にはものぐさな性格をしていたが、料理は嫌いな家事ではなかったのだ。

 プロほどの腕前はないにしても、それなりの味の食事は作れると自負していた。


「どうしてうまく家事ができないのかなあ? けっこう頑張っているつもりなのだけどな」


 この世界にやってきて、どんなに料理の練習をしても味が上達しない。

 それどころか、ろくに家事全般ができないのだ。


 料理については先ほどクロビスが語った通り。

 掃除、洗濯についても似たようなものだ。

 窓を拭こうとすれば割ってしまうし、服を手洗いしようとすると生地をびりびりに破いてしまう。


 あまりに家事スキルが壊滅的なので、自己肯定感が下がってしまう。

 きっとヴァルカがいそがしく世話を焼いてくれていなければ、サクラはもっと気持ちが落ち込んでしまっていただろう。


「根本的な問題として、肉体と魂の相性がよくないのかもしれません。家事が上達しないのではなく、そもそもからだがうまく動かせないのでしょう?」


「相性の問題はわからないけど、からだが思うように動かせないのは間違いないかな」


 三か月この世界で暮らしてみて、サクラの一番の問題点はそこだった。


 なにをしても、からだに力が入りすぎてしまう。


 この世界にやってきた日、熊から走って逃げられたのも、これだけの力があったからできたことなのだと納得してしまう。


 だんだんと加減を覚えてきて、ようやくここ最近になって物を破壊することがなくなってきたのだ。


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