「いってらっしゃいませ旦那さま」
背後から声をかけられた。
慌てて振り向くと、そこには小雪が立っていた。
「見送りはよいと言ったはずだぞ」
小雪に向かって、数馬は眉間に皺を寄せながら声をかけた。
「大事な身体なのだから、ゆっくり休んでいなさい。私のことなど気にかけなくてよいのだ」
「そういうわけにはいきません!」
数馬が咎めるように言うと、小雪は少し拗ねたような表情を見せた。
その顔を見ながら、以前にもこのようなやりとりをしたことを思い出した。
古い記憶ではない、つい最近の出来事だ。だというのに、数馬はその時のことが懐かしくなり、つい頬が緩んでしまう。
すると、小雪の腕の中にいた赤子が笑みを浮かべる。
「あら、父上のお気持ちがわかるのかしら。とっても機嫌が良さそう」
「そのままずっと機嫌が良いといいのだが。昨晩も夜泣きがひどかっただろう?」
「ええ。ですが、皆が手伝ってくれますから。あなたもこうして気にかけてくださいますし」
小雪も微笑むと、腕の中の赤子がきゃっきゃと声を上げる。
そのまましばらく三人で笑い合っていた。すると、遠くからドタバタと誰かがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「まあまあ、どうなさったのですか。朝から騒がしいですよ」
廊下の奥から義母のおそのがやってきた。おそのは数馬の姿を見るなり顔を顰めると、大きくため息をついた。
「──まったく。婿殿はまだいらしたのですか?」
「ええ、どうにも二人から離れがたくて……」
「小雪や赤子のことは私がしっかりと見ております。どうか婿殿は安心してお勤めに向かってくださいませ!」
「かしこまりました。それではいってまいります」
「それで結構です! 二人のためにもしっかりとお役目を果たしてきてくださいませ」
おそのにぴしゃりと言われ、数馬は逃げるようにその場から離れた。
おそのは悪い人ではないが、どうにもあの物言いには慣れることができない。数馬は逃げるよう足早に自宅の敷地を飛びだした。
しかし、一歩二歩と門の外を歩いたところで立ち止まると、背後を振り返った。視界に入ってきたのは、満面の笑みを浮かべる小雪と赤子の姿だった。
片倉はまだ土砂留め奉行として立派に勤めている。数馬が役職を引き継ぐのはもう少しだけ先になるだろう。
それまでにしっかりと学ばなければならない。決意を新たに、数馬は奉行所へと向かって歩きだした。