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「ただいま戻りました。……そう、いつも通りに言えばいいのだ」
数馬は自宅の敷地の前で、ぶつくさと独り言をつぶやいていた。
「帰りが遅くなってしまったのは私のせいではないのだ。堂々と胸を張っていればよい。なに一つ後ろめたいことなどないのだ」
数馬は自分に言い聞かせるように、何度も同じ言葉を繰り返していた。
「……ああ、どうしたらよいのだ。いや、私にはどうすることもできないのだが……」
ほんの数日とはいえ、帰宅が遅れたことを義母のおそのに責められることが恐ろしい。あの甲高い声で「婿殿」と呼ばれると、身体が硬直してしまう。
数馬は小言をぼやきながら、豊島家の門の前で右往左往していた。
今日の昼過ぎ、巡回に出かけていた数馬を含む片倉の一行は、お役目を終えてようやく奉行所に戻って来た。
予定よりも二日遅れての帰りだった。
数馬が顔を見せるなり、出迎えに出てきていた奉行所の者が声をかけてきた。
つい先ほど豊島家から使いがあり、数馬への言伝を頼まれたのだという。
小雪が産気づいた。数馬が戻ってきたらそのことを伝えてくれとだけ頼んで、慌ただしく帰っていったそうだ。
それを聞いていた片倉は大層喜んでくれた。すぐ自宅へ戻るよう言われ、数馬はここでこうして落ち着きなく過ごしている。
「……あのう。そんなところにおられずに、中へお入りになったほうがよろしいのでは?」
自宅の敷地から豊島家の奉公人が姿を見せた。
奉公人は数馬のことを呆れた顔をして見つめてくる。
「──っい、いつからそこにいたのだ?」
「そうですね。少なくとも門の前を三往復しているお姿は確認しております」
ため息まじりの奉公人の返事を聞いて、数馬は恥ずかしさから頬が熱くなる。
気まずくなって視線を逸らすと、奉公人の大きなため息が聞こえた。
「落ち着かないお気持ちはお察しいたします。ですが、そのようにうろたえていても仕方がないでしょう」
「……うろたえているわけではない。少し落ち着かないだけだ」
「いやいや、なにをおっしゃいますやら。先ほどからお戻り後の第一声の鍛練なんてしていらっしゃったくせに。お忘れかもしれませんが、
「………………それは、そうだな」
どうやら奉公人には数馬が門の前にやってきたところから全て見られていたようだ。数馬がおそのからの叱責を恐れていることまで見透かしている。
数馬は諦めて奉公人に向き直ると、表情だけでもと取り繕ってから声をかけた。
「……で、小雪の様子はどうなのだ?」
「初産でございますから。まだまだでしょうね」
いま数馬が自宅の敷地の前であたふたとしている瞬間も、小雪は命懸けで出産に挑んでいる。
そう考えると、やはり落ち着かない気持ちになる。数馬は再び門の前をうろつき始めてしまった。
「それはもういいですから。ひとまずは旦那さまにお役目を無事終えたことをご報告なさるべきでは?」
「そうだった! まずは
義父には巡回の件だけではなく、片倉の役目を引き継ぐ可能性があることを報告しなくてはならない。
数馬が慌てて豊島家の門を潜ると、奉公人が驚いたように声をあげた。
「いやあ、そのように取り乱すこともおありなのですね」
「……なんだその言い方は。どういう意味だ?」
小馬鹿にされたような気がした。数馬は足を止めると、目を丸くしている奉公人を振り返り睨みつける。
鋭い視線を向けられているというのに、数馬と目が合った奉公人は嬉しそうに顔をほころばせた。
「いつも落ち着いておられる印象なので、見るからに慌てておられるお姿を見ると不思議と安心いたします。そのように睨みをきかせていらっしゃるのも、照れ隠しなのだということがよくわかりました」
「別に慌ててはおらぬし、照れ隠しなどでは断じてないぞ」
「そうですか。出立前と比べると、随分と印象が柔らかくなられた気がいたします。お勤めで何かございましたか?」
「……っ別になにもない。もういい、私は行くぞ」
数馬は奉公人へそう言い捨てて、すぐさま自宅の中に入る。
普段ならば帰宅後に必ず着替えてから義父の元へ向かうのだが、この時ばかりは小雪と産まれてくる子のことで頭がいっぱいだった。
巡回へ出かけていたときの野袴のまま、義父の元へ顔を出してしまったのだった。