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第3話

「いやあ、今日は快晴になってなによりだ。巡回に行って土砂に巻き込まれてはたまらんからな」

「……これは白井しらい殿。そのように縁起でもないことをおっしゃらないでくださいませ」


 同心の白井が、にやにやと薄気味悪い笑顔を浮かべながら声をかけてきた。

 この男は、普段から数馬に冷たく接してくる。数馬の顔を見ると嫌味を言わなければ気が済まないらしく、相手にするのは骨が折れる男だった。


「そういえば、そろそろ子が産まれるのではなかったか?」

「はい。医者からは、いつ産まれてもおかしくはないと言われております」


 白井の質問に、数馬は正直に答えた。だが、この返事がよほど気に食わなかったらしい白井は大きな舌打ちをした。

 奉行所内の同心たちが言うには、白井は数馬の妻である小雪に惚れているらしい。数馬が婿に入るより前に、自分が豊島家の跡取りになると何度も義父に申し入れていたが、ことごとく断られてしまっていたのだそうだ。


「……ふん。ではお主は小雪殿が大役を果たしているときに、留守にしているというのだな」

「それはなんとも言えませぬ。予定通りお役目が終われば、出産に間に合う可能性はありますので……」

「まあ、お主がいたところでなにも手伝えることはあるまいがな」


 白井はどうにかして小雪を妻にしたいと、義父に取り入ろうと試行錯誤していた。

 しかし、白井がそうこうしている内に、数馬が豊島家の婿として迎え入れられた。そのことがいつまでも受け入れられないらしく、白井は数馬に会うとこうしていちいち突っかかってくるのであった。


「……このたびの巡回、何事もなく無事に帰ってこられるとよいなあ?」


 白井の嫌味を聞いている間に、片倉は用意された駕籠に乗りこんでいた。

 集まっていた巡回の一行が動き出す。それに続こうと数馬が一歩足を踏み出したときに、白井が嫌味ったらしく耳元で囁いてきた。

 普段なら白井の戯言など気にも留めない。

 だが、先ほどの片倉の様子といい、数馬はこれから向かう巡回に一抹の不安を覚えてしまった。


 ──今回の視察、なにか問題になるようなことがあっただろうか。事前に村役達から送られてきた報告には目を通したが、取り立てて注意するべきことはなかったはずだが……?


 数馬は白井に質問をしようか迷った。

 しかし、数馬が何を尋ねても、白井は嫌味しか返してこないということはこれまでの経験からわかりきっている。どうせ数馬を不安にさせること自体が目的なのだ。困惑している姿を見たいだけなのだろう。


「白井殿、わざわざお見送りありがとうございました」


 数馬は涼しい顔をして白井に声をかけると、さっさと歩を進めた。

 白井はまだ何か言いたそうにしていたが、数馬は無視をして片倉の乗る駕籠を追いかけた。



 数馬はもともと貧乏御家人の三男坊だった。

 義父はそんな数馬の何を気に入ったのかは知らないが、豊島家の婿として認めてくれた。数馬は豊島家に入ったことで、義父の役職を継いで与力という立場につき、片倉の補佐を務めている。


 白井からすれば、お先真っ暗の貧乏御家人の三男坊が、いきなり上役になってしまったのだ。それも、好いた相手の夫だというのだから、快く思わないのは当たり前だ。


 町奉行所の中には、白井ほど露骨に態度には出さないが、数馬に対して良い感情を抱いていない者は多い。 

 数馬は奉行所の者たちと馴染めず、孤独に過ごしている。

 小雪があれほどの美女でなければ、ここまで当たりはきつくなかったかもしれない。そんな風に思ったこともあるが、根本的に数馬が人の輪の中に入っていくことが苦手なだけだと気がついてからは、どうでもよくなった。


 今の数馬を動かしているのは、豊島家のひとりとして受け入れてくれた義父に対する恩義、信頼してくれる片倉に対する忠義だけだった。

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