都会の町並みはいつになく喧騒に包まれている。
ずっと自然に身を置いた者にとってこの喧騒は実に新鮮だ。
そんな新鮮さを味わう余裕もない朱音の表情は色濃い不安によって染まっていた。
「えっと、本当にここであってる……んだよな?」
目の前にそびえ立つビルを見やる朱音はもそりと呟いた。
男であるから所属はできない。確かに、昨晩そう断ったはずだった。
にも関わらず、晃はドリームライブプロダクションの事務所前にいる。
大手というだけあって外観は立派の一言に尽きた。アイドル事務所というよりはちょっとした施設である。
今から事務所に入ろうとしているのだから、途方もない緊張感に苛まれるのは至極当然だといえよう。
これで緊張せずにがっはっはっ、と笑い飛ばす者がいたら果たしてそれは豪胆か、あるいは単なる愚か者か。
郊外に近しいだけあって自然も豊かで空気も穏やかである。その穏やかさが唯一の味方だった。
「よ、よし……いくぞ。落ち着け……ただ普通に話をするだけだ、うん。いつもどおりにやれば大丈夫……」
朱音はおずおずと事務所内に入った。
「お待ちしておりました。
「あ、ど、どうも……」
「……本当に女の子にしか見えないわ。いいなぁ、私だってあれぐらいかわいくなりたかったわ」
背後より本音をもらす受付に苦笑いを浮かべつつ、四階を目指す。
ゆっくりと上昇していくエレベーターが、三階で止まった。
静かに扉が開き、中に人が入ってきた。一人の女性だ。年はおそらく自分よりもやや年上といったところ。
セミロングにした銀色の髪は、どこか彼女を連想させる。落ち着いた雰囲気は大人としての魅力があった。多分、この人はタマモではない。朱音はそんなことを、ふと思いながらも軽く会釈した。
「あ、もしかして昨日の人ですよね!?」
「え?」
朱音はぎょっと目を丸くした。
女性の発したその声は、つい最近耳にしたばかりである。忘れるはずがない。よく記憶しているからこそ、朱音は驚かずにいられなかった。
もしかしなくても、この女性がそうなのか……? 困惑する朱音とは真逆に、その女性はまるで旧友に再会したかのような反応を示す。圧倒的に距離感が友人のそれだ。いくらなんでも近すぎる。
「どうしてここに……って、もしかしてドリスタに所属するって感じですか? いやはやこれはもはや運命的ななにかを感じちゃいますねぇ! ひょっとして前世でタマモたち、なにか繋がりがあったとか? クイクイッ!」
「あ、あの昨日はどうも。それとなんですけど実は――」
「この後社長室に行くんですよね? だったらこのタマモちゃんが案内しちゃいますよ~! いやぁ、新しく後輩ができるというのは嬉しいもんですねぇ!」
「だめだこの人。全然話聞いてくれない」
現実と仮想……そのどちらもが素であるというのはある意味で珍しい気がする。
身バレを防ぐためにそのキャラクターとして演じる。それが常識だと朱音は思っていた。
タマモのような性格のVtuberも世の中にはいるようだ。彼女が稀有な存在なだけかもしれないが……。
タマモの案内のもと、社長室についた朱音はそこにいた人物にそっと頭を下げた。
「よく来てくれましたね南方朱音さん。顔をあげてください、むしろお礼を言いたいのはこちらのほうですから」
「は、はぁ……」
「改めまして自己紹介を――私がこのドリームライブプロダクションの代表取締役を務めている
「略してダンダダンです! ダンダダン社長ってタマモたちも呼んでるんですよ」
「は、はぁ……。いや、さすがに初対面の方にいきなり愛称呼びは失礼すぎますので、段田社長と呼ばせていただきます」
「はははっ、僕は何も気にしていませんよ」
一見すると彼は、どこにでもいるごくごく普通の中年男性だ。
ふっくらとした腹部が目立ち、温厚で優しそうな顔をしている。
言霊も穏やかで優しい。きっと彼はよい人なのだろう。朱音はそう判断した。
「どうぞ、そこにおかけください。タマモさん、ちょっとお話しするので離席してもらってもいいですか?」
「はいは~い。それじゃあ後輩ちゃん、また後でね~」
「――、すごく元気というか、明るい方ですね」
「はははっ。タマモさんの元気に勇気づけられた、という人は多いですからね。一期生としてずっと支えてくれた彼女には頭があがりませんよ」
「……それで早速本題に入りたいのですが――正気ですか?」
朱音はすこぶる本気でそう尋ねた。
男と知っておきながらもぜひとも逢いたい。目前にいるこの社長はそう言ってきたのだ。
とても正気とは思えない発言に朱音は未だ困惑が拭えずにいた。いったいなんの目的があるのか、さっぱりわからない。
わからないだけに得体の知れない不安となって朱音の胸中でぐるぐると激しく渦巻いている。
「ここ、女性Vの事務所ですよね? 男の俺がいるのすごくまずいと思うんですけど」
「それについては重々承知しています」
「だったら、どうして……」
「それは君に無限の可能性を感じたからです」
そう口にした段田社長の言葉に嘘偽りはなかった。
いったいその自信はどこからやってくるのだろう。迷いない澄んだ瞳でジッと見つめる段田社長に、朱音は小首をひねる他ない。
「タマモさんの配信で君を見た時、ビビッときたんです。あの子をここで手放してしまったら一生後悔する、と。だから君が男だとわかってもこうして声をかけたんです」
「つまり、直感ってことですか?」
「そうなりますね」
「いやいやいや」
段田社長の言霊は愚直すぎるぐらいまっすぐだった。
とても正気の沙汰ではない。それは他のアイドルたちの信頼を裏切る形にもなってしまう。
女だらけの職場だからこそ安心して配信できるのに、せっかくの環境が損なわれてしまったらそれはアイドルたちの居場所を奪ってしまうのも同じだ。
所属する意味も価値もなくせば、わざわざドリームライブプロダクションに在籍する必要性もなくなってしまおう。最悪の場合、他所の事務所に移籍する可能性だって十分にありえるのだ。
これまで築き上げてきた者が、たった一人の過ちによってすべてが水泡に帰すかもしれない。
その責任はあまりにも強大だ。たかが一介の人間が背負うには重すぎる。自分ではとてもではないが無理だ。
「申し訳ありませんが、やはり俺には荷が重すぎます。俺一人の所為ですべてが台無しになるってことを想像したら、とてもじゃないですけど……」
だからこそ朱音は、段田社長からの申し出を拒否した。
静かにかぶりを振る朱音に、段田社長の表情は心なしか寂し気である。
「……どうしてもだめですか?」
「俺が男じゃなかったら、もしかしたら受けていたかもしれないですね。でも、申し訳ありません。仮に俺が女性だったとしても多分お断りしていたと思います。配信という形で誰かを楽しませたりするだけの度量も技術も、俺にはありませんから」
エンターテインメントはあくまでも、それを全力で楽しむほうに徹底している。
提供するためにはそれ相応の技量も覚悟も、たくさんのものが必要だ。
タマモたちはそれが備わっているからこそ、Vアイドルとして成り立っている。自分では到底不可能な世界だ。
「……そうですか。残念ですが、無理をして君を引き留めるわけにもいきませんからね」
「せっかくお誘いしてくださったのに、申し訳――」
不意に無機質な電子音が会話を遮った。
「あ、すいません。マナーモードにするの忘れてました!」
「大丈夫ですよ。それより、電話に出なくて大丈夫ですか?」
「すいません、ちょっとだけ失礼します!」
社長室を出てすぐに、朱音はディスプレイに表示された相手に怪訝な眼差しを送った。
あの電話を滅多にしない祖父からの着信だった。珍しいな。朱音ははて、と小首をひねった。
祖父は滅多に電話をしない。年内で10回もあれば多いほうに部類される。
「いったいどうしたんだ……? もしもし? いきなり電話するなんてどうしたんです?」
《た、大変じゃ朱音! 一大事じゃ!》
「……なにがあったんだ?」
如何なる時も冷静であれ。そう幾度となく口にしたはずの張本人がこんなにも激しく狼狽している。
只事ではないらしい。朱音は身構えた。とにもかくにも、まずは話を聞かなければどうしようもない。
《だ、騙されたんじゃ! かの有名な刀匠、村正の打った刀だと言ったから買ったのに……偽物だったんじゃー!》
「はぁぁぁぁぁぁ!? ちょ、なんでそんな……だから怪しい奴からは買うなっていつも言ってるだろ! いったいいくらだ? いくらで買ったんだ!?」
《……一千万》
「は?」
《じゃから! その、い、一千万……》
「おまっ……馬鹿すぎる。いくらなんでも馬鹿すぎるってじいちゃん!」
あまりにも予想外すぎる展開に、朱音は呆れるしかなかった。
一千万という大金があっさりと失ってしまった。これで本物であればその価値に見合うとして納得もできよう――それでも、決して許せるものではないが。無駄遣いという範疇を超えすぎている。
膨大に膨れ上がった借金に立ち眩みが襲った。ここで卒倒したほうがどれだけ気が楽だっただろう。
下手に鍛えられた精神が今ばかりは忌々しくて仕方がない。
「どうするんだよ、これ……いや、マジでやばい。やばすぎるぞこれは……」
いくら考えたところでパッと妙案が浮かぶはずもなし。
むしろ考えるほどに浮かぶのは将来の不安ばかり。それは消えることなく残留し、増殖を激しく繰り返していく。
しばらくして、朱音は社長室に戻った。
「あの、大丈夫ですか?」
不安そうな顔をした段田社長に朱音は勢いよく土下座した。
なりふり構っているだけの余裕なんてものは、これっぽっちもない。
すべては、生きるため。生きるためであればちっぽけなプライドなど路傍の石に等しい。
土下座するだけで解決できるのならば……! 朱音は口火を切った。
「断っておいて都合のいいことはわかっています。ですが、お願いです。どうかこちらで働かせていただけませんか?」
なんて都合のいい話だ。朱音は内心でそう思った。
自分が社長であったならばすぐに拒否したに違いない。
社会で一番重要なのは信頼だ。その信頼を易々と裏切るような社員は悪影響を及ぼしかねない。
そうと思われようとも、このチャンスを逃すわけにはいかない。朱音は必死に懇願した。
「都合がいいのはわかっています。ですけど、お願いです。雑用でもなんでもいいので、こちらで働かせてくれませんか!?」
「……顔をあげてください」
「…………」
おずおずと視線をあげた先、相変わらず優しく穏やかな顔がそこにあった。
彼の浮かべるその笑みには不思議な魅力があった。この人にならばついていってもきっと大丈夫、と――確固たる根拠もなし、言うなればそれこそ直感の類だ。お世辞にも信頼足り得る要素には至らない。
だが、朱音はその直感を信じた。
「さっきの電話、ですよね? なにか事情ができてしまった……という感じですか」
「……恥ずかしながら」
「どれだけ力になれるかわかりませんが、君の助けになれるのなら僕は喜んで力を貸します」
「じゃ、じゃあ……!」
「えぇ、色々と大変とは思いますけどいっしょにがんばっていきましょう」
「あ、ありがとうございます!」
「こちらこそ――じゃあ、早速ですけど配信は一週間後という感じで」
「……へ?」
やはり自分のこの判断は誤りだったかもしれない。朱音はすこぶる本気でそう思った。