あれは三ヶ月ほど前のことだった。
僕は気がつくとこの世界……駅前の大通りに一人ぽつんと立っていた。
荒地に石畳の道路が一直線に続いている。
路の両脇には明らかに誰も住んではいないだろう、廃墟が立ち並んでいた。
「ここはどこなんだ……」
空には満月が煌々と光っていたが、特に街灯もなかったし、霧がかかって不気味だったから薄暗い感じがした。
「記憶が曖昧だ……。僕は確か駅にいたはずなのに……」
振り返ってもう一度駅を見ると、明らかに僕がいた駅とは違う。というか、見たことすらない駅だった。
駅は、いつの時代に建てたのかわからないほど古く、コンクリートの壁に所々、ヒビと落書き。
……そして、血のような赤いものがべっとりと着いている。
人気は全くない。
駅名を見ようと思っても、屋根の下に付いている木の看板は半分が腐れ落ちて、『駅』と書かれた部分しか残っていない。
駅の中に入れば、さすがに誰かいるだろうとは思うが、不気味すぎて入る気がしない。
……なんで、夜なのに明かりをつけないんだ?
閉まっているようにも見えないし。
「誰か、誰かいないのかー」
こんな夜更けに迷惑かと思ったが、そんなことを気にしている場合でもないと思い、声を張り上げる。
……すると。
「グルルル!」
明らかに人の発する声ではない音が背後から聞こえる。
嫌な予感がする。
恐る恐る振り返ると、そこには腐って顔が半分溶けた野犬の群れがいた。
「なんでこんな街中に野犬が?」
しかし、僕のその素朴な疑問が吹っ飛ぶほど、次の瞬間、衝撃的なことが起こった。
「クイモノ」
「喋った!」
「クイモノダっ!」
だらしなく開いた口からダラダラとヨダレを垂らした野犬が一気に飛びかかってくる。
「ぎゃー!」
咄嗟に手をブンブンと振ると、その手が野犬の顔に当たった。
「ギャー!」
ゴロゴロを石畳の上を転がる野犬。
「あれ? 弱ぇ? 半分腐ってるからか?」
「オマエ……ソノ……チカラ……」
他の野犬がジリジリと後ずさって、僕との距離をとり始める。
僕としては近づいて欲しくないから、それでいいけど……。
でも、まあ、ここは止めを刺しておくか。
僕を襲ったお仕置きをしておかなくては。
「がー!」
両手を、爪を立てるように開いて顔の横に置いて叫ぶ。
子供を脅かすような仕草になってしまったが、野犬たちは「キャン!」と可愛らしく鳴いて去っていった。
「ふん。雑魚が」
額に浮き出た汗を手の甲でグッと拭う。
「これはこれは。なるほど、妙な気配を察してきてみれば……これは珍しい」
不意に後ろから声がして、汗が一気に冷たくなる。
振り向くと金髪のグラマーな女が立っていた。
女は顎に手を当てながら、舐め回すようにジロジロと僕を見る。
「……な、なんだよ?」
「貴様、生者だな」
「えっ?」
「死者が生者に手を出すことは禁忌に値する。犬畜生に堕ちた奴らでも掟を守ったようだな」
……最初から思い切り、襲ってきたけどな。
「ところでここはどこなんだ? 見覚えが全くないんだけど」
「死者の国だ」
「死者……? いや、ちょっと待てよ。僕は死んだってことか? そんな記憶は……」
必死に脳裏の奥に潜む記憶の糸をたぐり寄せる。
覚えているのは駅にいたこと。そして、みたことのない白い電車……。
そして白い猫。
断片的な記憶がパズルのピースのように散らばって混ざる。
それらをつなぎ合わせようとしても、まったく繋がらない。
「僕は電車に轢かれて……死んだ……のか?」
「貴様、あたしの話を聞いていなかったのか?」
「へ?」
「あたしは貴様に、生者と言ったのだ」
「生者? ってことは、僕はまだ生きているってことか?」
「ふむ。そのようだな。珍しいことに」
「え? え? え? ちょ、ちょっと待ってくれよ。ここは死者の国って言ったよな? なら、なんで生きている僕がここにいるんだ?」
「本当に貴様は人の話を聞かない奴だな。あたしは『珍しいことに』と言ったのだ。貴様は生きてこの死者の世界に来た。こんな事象はあたしでも初めて見る」
「な、なんで、来ちまったんだ?」
「知らん」
いきなりの状況に頭がついていかず、既に脳が思考を拒否し始めた、まさにそのときだった。
全ての問題を一気に打開する一言を、女は口にする。
「帰りたいか?」
「……帰れるのか?」
「駅の出口の隣。鉄の扉が見えるか?」
「扉?」
女が指さした方向を見ると、駅の出入り口の隣に社員用通行口のような小さい鉄の扉がある。
「あそこから駅に入れば……」
「帰れるんだな!? サンキュー!」
一秒でも早く、こんな薄気味悪い世界からはおさらばしたい気持ちで、教えてもらった扉までダッシュする。
扉の前に立ち、開けようとするがびくともしない。
押しても引いてもスライドさせようとしてもダメだった。
「そんなに簡単にいくか、阿呆」
女が僕の後ろに立ち、ため息混じりに言う。
「騙したなっ! 開かないじゃないか!」
「せっかちな奴だ。最後まで話を聞け。いいか。この扉は再生の扉、または召喚の扉と呼ばれている。本来、この扉を通り現世へ戻るには二つのものが必要だ」
「二つ?」
「『生体』と『刻印』だ。貴様は生きたままこの世界に来たから『生体』はクリアしている。あとは『王』が持つ、刻印。これがあれば、貴様は現世へ戻れる」
「その刻印ってどこにあるんだ?」
「この国の王が持っている。王に認められれば王が持つ刻印の力で、扉を開くことができるのだ」
「認められる? どうすればいい?」
「ふっふっふ」
小さく肩を震わせ、不敵な笑みを浮かべる女。
ものすごく嫌な予感がした。
「力を貸せ。貴様があたしの野望に手を貸してくれるなら、喜んで救いの手を差し伸べてやろうじゃないか」
「……一体、なにをさせる気だ?」
「下僕となれ」
「……」
「王を玉座から引きずり下ろし、あたしが女帝になる。当然、そうなれば刻印はあたしのもの。貴様をここから出してやろう」
「考える余地は?」
「ない。……まあ、どうしても嫌というならここに留まるがいい。数日で自我が崩壊し、野犬になれる。ちなみに、この世界で無事に生活するにはどこかの『街』の墓地に入るしかない。その『街』を治めているのがあたしだ」
確かに考える余地はなさそうだ。
考えるまでもなく、あんな野犬になる気はないし、この女の性格はキツそうだが従うしかなさそうだし。
「わかった。あんたに従う」
「口の利き方がなっていないぞ。そして、今度からあたしのことはアメリア様と呼べ」
おっと。いきなり自分を様付けで呼ばせることを強要するのか。
なかなかの性格だ。
なんてことをそのときは呑気に考えていた。
まあ、これがアメリアとの初対面であり、絶望の始まりだった。
後から聞いた話で、『街』はいくつも存在し、どこに行くかは本人が決められるということを知った。
しかも、一週間は自由に所属する街を変えられるということも、一週間地下に監禁された後に聞かされたのだ。
……完全に詐欺だよなぁ。
そして僕は思った。
もしかしたら、あのとき他の街に行っていれば今頃はすでに帰れたかもしれないと……。