逃げられたら追いかけたくなるのが人間というもの。俺は意地でもベッドの奥へと逃げようとする葵にじりじりと近づいていく。
「な、なななんなんだよ急に! こっち来んな!!」
「葵が逃げるからだろ。ほら、戻ってこいって」
「おま、お前がどいてくれたら戻るから! だからにじり寄るなって!!」
「ふぅん……」
やっぱり変だ。ここ最近ずっと積極的だった葵がこんな、俺から逃げ回るようにしているなんて。
「わっ! わぁ〜っ!! そ、そそそれ以上近づいたらぶん殴るからな!! だから一旦、マジで止まれって!!」
ふん、なんだそれは。枕を縦にして無理やり視界を塞ぐなんて。顔の紅潮は未だ留まるところを知らず頭の上から湯気でも出さんばかりな様子でそんなことをして、実質これはもう降参宣言だろう。
ここ最近、ずっと振り回され続けた。さりげない仕草や行動、その一つ一つに目を惹かれ、心を揺れ動かされた。
その反動だろうか。逆に今その葵を追い詰めていることに胸が高鳴っている。
「ったくなにがぶん殴るだよ。そんな様子で本当にそんなことできるのか?」
「〜〜〜〜っ!! てめっ、あんまり調子乗っ────」
葵が両手でしっかりと掴んでいた枕から右手を離し、よわよわな拳を放とうとしたその時。俺は防御の薄くなった枕に手を伸ばし、力を込めて。一瞬にしてそれを取り上げる。
普段なら力じゃ絶対に敵わない俺だが、この瞬間だけは。片手で簡単に枕を取り上げられてしまうほどに彼女の力が弱かった。
そして同時に。これまで見たことがないほどの赤面をした幼なじみが、そこにはいたのだ。
「あっ……あぁっ……」
「葵が弱ってるの、なんか新鮮だな。風邪の一つもひいたことがないお前がこんな簡単によわよわになるなんて」
「う、うるしゃぃ……枕返せぇ……」
「ど〜ぉしよっかねぇ。顔真っ赤っ赤にしてる葵をこのまま観察し続けるのも楽しそうだけど」
部屋に入ってすぐの時はこんなじゃなかった。
おかしくなり始めたのはやっぱり、いかに葵がゲーム中暴れているのかということを意識させてやろうと距離を詰めてから。そこら辺から次第におかしくなっていった気がする。
けど、二人で近い距離にいるなんて本当に今更なことだ。ここ最近だって手は繋ぐわ一つのベンチで一緒にお昼食べるわで。これくらいの距離感、なんてことはなかっただろう。
知りたい。なぜ葵が弱ったのか。なぜここまで酷く赤面してふにゃふにゃになってしまったのか。
「ぅ……あっ」
「へ?」
「うにゃああぁぁぁっっ!!!」
「っご!? い゛っ……!!」
しかしその時。葵が叫んだかと思えば、太ももに強烈な痛みが走る。
蹴りだ。手ばかり警戒していたせいで全く意識していなかった脚が一瞬にして伸ばされ、俺の太ももに足裏攻撃を喰らわせたのである。
なけなしの……しかし渾身のそれは見事に炸裂し、俺は痛みのあまり俯いた。
いや、その言い方は正しくないか。倒れ込んだのだ。葵を追い詰めようと膝立ちで立っていたものだから、そのままバランスを崩して。
葵に……覆い被さるようにして。
「いってて。何すんだ……って、うぇ!?」
「……ひゃひ」
衝撃のあまり瞑ってしまった目を開けると、目の前には白みがかった綺麗な肌。整った形をした鼻。そして、クリッとしていて丸い瞳。
「あ、あぅ……〜〜っ!!」
俺は、ゼロ距離で葵と見つめ合っていた。それも上から覆い被さり押し倒しながら。
ぷるぷると葵の身体が小さく震えているのが分かる。もしかしなくても怖い思いをさせてしまっただろうか。
いくら男勝りとはいえ、コイツも立派な一人の女の子。男からいきなり押し倒されたりなんてしたら怖くなって当然だろう。例えそれが幼なじみの俺相手だったとしても。
「ご、ごめん。わざとじゃなかった、っていうか……」
「あ、ぅ。ううぁ……」
手をのけてゆっくり離れるが、葵は以前固まったまま。俺の言葉にはっきりとした反応を示すことはなく、無言でずっと口をパクパクさせている。まるで思考回路が焼き切れてフリーズしてしまったかのようだ。
(やっば。心臓バックンバックン言っててうるさい。ま、まさか葵を押し倒すことになるなんて……)
少し調子に乗り過ぎた。またとないやり返しできる機会だからと責めたはいいものの、結果的にこんなことになるとは。
てか、ドキドキしすぎだろ俺。確かに女の子を押し倒したのなんて初めてだし、葵の良い匂いとかちょっとだけ当たった柔らかい(どことは言わない)感触とか色々と魅力は強過ぎたけども。
これはあれだよな? うん。初めてのことをして驚いた心臓が飛び上がっただけだ。
というかなんで葵は固まってるだけなんだよ。今までみたいに「何すんだよ!!」って跳ね除けてくれた方が俺としては気が楽だったのに。
そんな、受け入れるみたいにおとなしくなりやがって……。
「……じ、なし」
「? な、なんか言ったか?」
「……………いくじ、なし」
「〜〜ッッ!?」
は? はぁっ!? なんだよそれ。意気地なし? どういう意味だそれは。
俺はただ申し訳ないと思って退いただけだ。なんだよ、退かない方が良かったのか? 一体コイツは何を考えて……
「ふ、ふん。ひゃるとのばぁーか。お、おお女の子を押し倒しといて何もしないとか……これだからヘタレのいくじなしは……」
「なっ!? おま、顔真っ赤にしながら何言ってんだよ! ったく……調子狂うんだよ。葵のくせに塩らしくしやがって……」
「わ、わわ私はいつも通りだっての」
「顔赤すぎなんだよ! そんなんで言っても説得力無え!!」
「うるひゃ、うるひゃひ!! だって、仕方ないだろ……お、男の子に押し、押し倒される! なんて……初めて、されたんだからよ……」
「っ……」
これじゃあ本当にただの女の子だ。
いや、違う。
葵は昔から、心根はただの女の子で……。
「あ、あんまりドキドキさせんなよな。いいか!? そういうのは付き合ってからやれ! お前は今はまだただの幼なじみ。告白のやり直しをするまで、こういうのはもうナシだかんな!!」
「お、おう。分かった……分かったって」
顔を真っ赤にしながらグイグイと迫ってくるその光景はどこか異様で。照れ隠しと話の切り替えを無理やり同時にやった結果そのどちらも隠せていない。
(というか、告白のやり直しが成功したら……今のをもう一回してもいいって、そんな風に聞こえないか? 今の)
押し倒すことそのものへの拒否はなく、今葵が言ったのはそれをする時期の問題。今はまだただの幼なじみだから許さないが、そうじゃなくなったら……。
ドクンッ。鼓動が速く、強くなっていく。加速し、肥大化していく。
「よぉし、もういい! もう一回仕切り直してゲームやるぞ! 今日中に一回はお前に勝ってやるからな!!」
「……おぅ」
さっきまで赤くなっていたのは葵だけだったのに。気づけば俺の方もみるみるうちに顔に熱が集まっていって。
しばらく、葵の顔を直視できなかった。