「それで。
正俊からなにを言われた?」
改めてソファーに座り直し、紘希が切り出してくる。
「……その前に、紘希に話しておかなきゃいけないことがあって」
きっと、紘希ならわかってくれる。
そう信じているが、怖くて顔は見られなくて、俯いて袖を摘まむ。
「鏑木社長となんかあったって話か?」
黙って頷いたあと、小さく深呼吸して気持ちを整え、口を開く。
「紘希も知ってるかもしれないけど。
十年前、鏑木社長を刺したのは、私の父、なの」
それで父は、殺人未遂犯として捕まった。
私たちにまで罪を背負わせるわけにはいかないと父が申し出、離婚を母が受け入れたので今は母方の姓の瑞木を名乗っているが、それまでは西木だった。
紘希がどう思うか戦々恐々として待つが、彼はいつまで経ってもなにも言わない。
もしかしてやはり、犯罪者の娘と私を蔑んでいる?
そう、悲しくなった。
しかし。
「あーっ!」
いきなり彼が大声を上げ、顔を上げる。
紘希はまとまらない考えをどうにかするように、髪を掻き回していた。
「それってあれだろ?
アイツが取引先の人間に無理難題ばっかり押しつけて、追い詰められて狂った取引先の人間がアイツを刺したってあれだろ?
あれって、純華の父親だったのか!」
「あ、……うん」
紘希が、裁判でねつ造された事実ではなく、真実を知っているのに驚いた。
もっとも、これも本当の真実ではないのだが。
「……って、驚いてみせたけど、嘘」
「へ?」
私は深刻な告白をしたというのに、彼がふざけるように舌を出してみせる。
おかげで、変な声が出た。
「実は、知ってた。
正確には薄々気づいていた?」
気づいていたって、入社して六年、今まで誰からも指摘されなかった。
正俊だって調べて知ったと言っていたくらいだ。
「あの件で会長……あの当時は社長だったけど、カンカンだったんだ」
「……そう」
そうだよね、自分の息子が刺されて殺されそうになったら怒るのは当たり前だよね。
会長はきっと、その犯人の娘と可愛い孫息子との結婚なんて反対だろう。
「違う違う!」
私がへこんでいるのに気づき、慌てて紘希が否定してくる。
「あれだけ注意したのに聞かなかったオマエが悪い、自業自得だって。
これで懲りて反省しろ! って滅茶苦茶怒鳴ったって聞いてる」
「……そうなんだ」
私は裁判でしか、鏑木社長側の対応を知らない。
実はそんなことがあったなんて驚きだ。
それにそれは、いかにも曲がったことが嫌いな会長らしい。
「会長としては、反対にそこまで追い詰めた謝罪と最大限のフォロー、慰謝料も払うべきだって思ってたんだよ」
「なら、なんで」
父の裁判は散々だった。
アイツは都合のいい事実ばかりをねつ造し、父が横柄な取引先で自分がいかに困窮していたか訴えた。
父は反論しなかったのでそれが通り、重い罰と多額の賠償金を背負わされたのだ。
「アイツがオレをこんな目に遭わせたヤツは絶対に許さんって、暴れたんだよ。
会長の言うことを聞かずに、自分の希望を叶えてくれる弁護士連れてきてさ。
それで会長、ぶち切れたおかげで血圧上がりすぎていろいろヤバくなって、入院してるあいだにさらに好き放題。
会長は今でも、純華の父親に申し訳なく思ってるよ」
「そう、なんだ」
これで今までの違和感がかなり拭えた。
あんなヤツが野放しな会社なんて超ブラックに違いないと入ったのに、会社としてはホワイトなんだもの。
あの当時は本部で部長をしていたアイツが子会社に行ったからというのはあるかもしれないが。
「それで、さ。
父さんからバカのやることを見て反面教師にしろって言われて、アイツの裁判に通ってた。
そこで、純華を見かけた」
私も父の裁判には傍聴に通っていた。
まさか、あそこに紘希もいたなんて思わない。
「怒りと悲しみをぐっと飲み込んだような顔で、真っ直ぐに前を見つめている純華が、綺麗だと思った。
不謹慎だけど、一目惚れだったんだ」
「あ、うん」
照れたように彼が、人差し指で頬を掻く。
おかげで私の頬も熱くなっていった。
「でも、あんな最低野郎の身内だろ?
恥ずかしくて声はかけられなかった。
それに毎回、裁判に来てるし、きっと被告の身内なんだろうな、って」
「……そっか」
「うん。
それで、研修のときにすぐにあのときの子だって、気づいた。
再会が嬉しすぎて、なんであんなことがあったのにこの会社に入ったのかなんて、考えるの忘れていたな……」
ははっと自嘲するように彼が小さく笑う。
「……きっとあんな男がいるような会社だから、不正とかいっぱいやってるはず、私が暴いて潰してやる!って思ってたんだよ」
「ヤバっ、純華に俺の会社、潰されるところだった」
引かれるか嫌がられるかだと思ったのに、紘希はおかしそうに笑っている。
「そんなわけで。
俺の親類は大方、純華の父親に同情的だし、俺もそうだ。
だから、気にしなくていい」
優しく微笑み、安心させるように彼は私の頭をぽんぽんしてきた。
「それに、純華が犯罪者の娘だから、俺には会社を継がせられないっていうのなら、継がなくていい」
なんでもないように紘希が言う。
でも。
「……それが嫌だから、別れようと思ったんだよ」
「純華?」
私が怒っている理由がわからないのか、紘希は怪訝そうだ。
「紘希はきっと、会社より私を取るってわかってた。
でも、私のせいで今までの紘希の努力を無駄にさせるのが嫌なの。
私は紘希の重荷になりたくない。
だから、やっぱり別れよう?」
紘希の家族は気にしなくても、世間はあの社長の妻は犯罪者の娘だと後ろ指を指すだろう。
それで、仕事だって上手くいかなくなるかもしれない。
そんなの、私が耐えられない。
「あー……」
紘希は長く発したまま、天井を仰いでいる。
しばらくしてゆっくりと、私に視線を戻した。
「ごめん、なんか間違えた」
彼の腕がそっと、私を包み込む。
「俺は絶対に社長になるし、絶対に純華を守る。
純華を犯罪者の娘だって詰るヤツがいたら、俺が叩きのめす。
だから、安心していい」
「……約束、だからね」
「ああ」
誓うようにつむじに優しい口付けが落とされる。
それでぽろりと、涙が零れた。
「うっ、ふぇっ」
父が捕まってから、ずっと頑なだった心が解けていく。
あんなヤツの言うことを信じる、世間は敵だって思っていた。
でも、実際は、アイツの親族だって、ちゃんと理解してくれていた。
「……うん」
私の髪を撫でる、彼の手は優しい。
紘希はそうだ。
優しくて、誠実で、とても真面目な人。
こんな彼だから、警察も弁護士も知らない、本当の真実をあかしてもいい気持ちになった。
「……本当は、父じゃないの」
「え?」
驚いた紘希が、私の顔を見る。
「刺したのは、父じゃないの。
本当に刺したのは……」
これはあの日、私の家を訪れて、泣いて謝罪する父の部下から聞いた話だ。
鏑木社長を刺したのは、父ではなく彼だったのだ。
追い詰められ、不安定になっていく彼を心配して、父はその日、同行した。
父があれこれ手を尽くしてもアイツの横暴は止まらず、耐えられなくなって彼はアイツを刺した。
父は一瞬固まっていたが、状況を理解するとともに彼を連れ出し、言ったそうだ。
『これは僕がやったことだ。
君は刺したのは僕だと証言しなさい。
絶対に自分がやったとは言ってはいけないよ。
いいね』
強く言い含められ、彼はそれを承知した。
父のこの言葉は、彼とその奥さん、そして生まれたばかりの子供を思ってだった。
私の家にやってきた彼は、家にすら上がらず玄関で床に頭を擦りつけて、土下座をした。
ごめんなさい、許してください、申し訳ありません。
ひたすら続く謝罪の言葉を、やるせない気持ちで聞いていた。
刺した彼が悪いが、それでも責められる状況ではない。
『お父さんはそういう人だもの。
諦めましょう?』
泣き笑いの母の顔は、今でも忘れられない。
父から一方的に離婚届が送られてきたときも、母は同じように言って、判を押した。
幸い、というのは嫌だが、あのとき部屋にいたのはアイツと彼と父の三人だけで、しかもアイツは刺されたときのショックで記憶が混乱しており、刺したのは父かと聞かれてそうだと認め、父の思惑どおりになった。
「じゃあ、純華のお父さんはその彼を庇っただけなのか」
そうだと、黙って頷く。
「父の意思を尊重して、誰にも話してない。
知ってるのは私たち三人だけと、紘希もだね」
父がそうしたいと願った。
だから、私たち三人は、真実を誰にも話さなかった。
「でも、それで本当にいいのか」
じっと紘希が私を見つめる。
部下がアイツを刺したりしなければ、父が部下を庇ったりしなければ、今でも父は母と夫婦仲よく暮らしていたのだろう。
真実をあきらかにして、父の罪を取り消せるのもわかっている。
それでも。
「それは、父は望んでいないと思うの。
父は自分が不甲斐ないせいで、部下の幸せを壊すのが嫌だったんだよ、きっと」
私も係長になんてなって、一応部下がつくとわかる。
相手先の社長を刺すほどに部下は追い詰められていたのに、自分はなにもできなかった。
せめて、彼の家庭は守りたい。
きっと、そんなところだろう。
私たち家族はどうなのかという気持ちもあるが、生まれたばかりともう手も離れかけている高三じゃ、生まれたばかりのほうが大変に決まっている。
「それにあの人はもう、十分に罰を受けてるから」
彼は判決の下った日も、私の家に来て謝罪してくれた。
そのあとも毎年、事件のあった日にうちへ謝罪に来る。
課長のご家庭を壊したのに、自分は幸せで申し訳ないと毎回、苦しげに顔を歪めて額を床に擦りつけるのだ。
そんな彼が、罰を受けていないなんてありえない。
「あとね」
紘希の顔を見上げ、レンズ越しに目をあわせる。
「あんなことがあったからこの会社に入ろうって思ったし、それで紘希に出会えた。
きっとなにもなかったら、今頃全然別の会社で働いているかもだよ」
「……それは困るな」
彼は真剣に悩んでいて、おかしくなってくる。
「俺が純華に一目惚れしたのも、アイツの裁判だしな。
くっそー、複雑な心境だ」
「そうだね」
甘えるように彼の胸に額をつける。
「でも、紘希に会えたのだけはよかったと思ってる」
「俺も純華に出会えたのだけは、よかったと思う」
紘希の手が、私を上に向かせる。
少しのあいだ見つめあったあと、唇が重なった。
「……なあ。
抱いて、いい?」
私の頬に触れ、眼鏡越しにじっと紘希が私を見ている。
「純華がまた、俺から離れたいなんて言わないように縛ってしまいたい」
レンズの向こうの瞳は不安そうに揺れていた。
紘希はいったい、なにが言いたいのだろう?
秘密をあかしてしまった今、もう私が彼から……そうか。
ずっと私は紘希との別ればかり考えていた。
きっと彼も、それを感じ取っていたのだ。
だから、こうやって現実になって、それが拭えても不安で堪らないのだろう。
「いいよ。
もう、紘希から離れられないようにして」
自分からきつく、彼に抱きつく。
「ありがとう、純華」
紘希からも抱き締め返された。
さすがにイブキのいるところではできず、寝室に移動する。
もどかしそうに服を脱ぐ紘希の隣で、私も脱いだ。
「純華……」
熱い声で私の名前を呼び、彼が唇を重ねてくる。
そのままその唇で、舌で、指で、何度も天国へと連れていかれた。
「紘希!
紘希が、欲しいの……!」
「わかった」
私の声を合図に、紘希が入ってくる。
私の身体を揺らす彼を、下から見ていた。
いつもは丁寧にセットされた髪が、乱れている。
なにかを堪えるように、眉間に寄った皺。
それらすべてが私を幸せにさせた。
「どうした?」
視線に気づいたのか、彼の手が私の頬に触れる。
「愛してる」
その手に自分の手を重ね、甘えるように頬を擦りつけた。
「俺も愛してる」
噛みつくみたいに彼の唇が重なる。
「一生、紘希と一緒にいる」
「絶対に純華を離さない。
だから――」
感情をぶつけるように彼の動きが激しくなる。
そして――。
「ああーっ!」
私が果てると同時に、紘希の欲が私の胎内へと注ぎ込まれた。
「これで俺から離れられなくなるな」
さらに奥へとそれを押し込むかのように紘希が腰を押しつける。
「そうだね、もう紘希から離れられないね」
私の嬉しくて、笑っていた。
「でも、もっと確実なものにしないといけないからな」
「えっ、あっ!?」
紘希が私の足を抱え直す。
彼のそれはまた、堅さを取り戻していた。
……そのあと。
何度も何度も彼に愛され、最後には意識を失っていた。