「瑞木係長。
オンゾーシが呼んでるけど、なんかしたの?」
会長とのランチの翌週、いつもどおり仕事をしていたら同僚男性から声をかけられた。
「御曹司が……?」
「そう、オンゾーシが」
同僚のいう御曹司とは、紘希のことではない。
薄々、彼が会長の身内だっていうのはもうバレているが。
この場合は、子会社の、鏑木社長の息子の
当人としてはそう呼ばれてちやほやされていると思っているみたいだが、大多数はカタカナのオンゾーシ呼びで彼を疎んじていた。
「それともあれか?
矢崎課長の件であたりにきたか。
なんにしろ、ご愁傷様」
「は、はははは」
慰めるように彼が私の肩を叩く。
それに引き攣った笑顔を向けた。
「失礼します」
指定されたミーティング室へと入った途端、今年入ってきた女の子と目があった。
正俊の隣に座らせられていた彼女は、涙の浮かぶ目で縋るように私を見た。
「もーさー、もうちょっと気を利かせてくんない?」
ニヤニヤいやらしく笑っている正俊の手は彼女の太ももにのっていて、なにをしようとしていたのか丸わかりだ。
「それはすみません」
つかつかと彼らの傍に勢いよく寄り、彼女の手を引っ張って立たせる。
そのまま、庇って彼と彼女のあいだに立った。
怒りで、頭が沸騰する。
けれど、ここで熱くなったほうが負けだ。
少しでも冷静でいろと自分に言い聞かせた。
「あとはいいから、戻りなさい」
しかし彼女は、おどおどと正俊を窺っている。
きっと、言うことを聞かなければクビにしてやるとか言われたのだろう。
「大丈夫、なにも心配しなくていいから。
ほら」
今度は、できるだけ安心させるように彼女に微笑みかける。
それでようやく彼女は表情を緩ませ、ぺこりと頭を下げて部屋を出ていった。
「鏑木さん。
セクハラ行為について散々注意を受けているはずですが」
彼がこちらに来ては女子社員やアルバイトを口説いているのは、問題になっていた。
ただ口説くだけならまだいいが、親の、会長の威を借り食事に無理矢理連れていき、……そのあとは想像にお任せする。
訴えられないのはひとえに、問題になる前に父親が金で解決してしまうからだ。
「へぇー、俺にそんな口、きいていいの?」
いやらしく彼が、ニヤニヤと笑う。
それが格好いいと思っているのか、シャツの第二ボタンまで開け、彼はだらしなくネクタイを緩めていた。
足を大きく開いて座り、くちゃくちゃとガムを噛んでいる様は、御曹司というよりも安いチンピラだ。
「いいと思っています」
平然と余裕を持って、彼の前に座る。
クビにしたいのならすればいい。
もっとも、子会社とは違い、ここでは彼の要求なんて誰も聞かない。
それに先ほどの件を出せば、分が悪いのは彼のほうだ。
「ふーん。
……殺人犯の娘のくせに」
「……え?」
一気に血液が引いて、目の前が真っ暗になった。
寒くもないのに全身がカタカタと震える。
なのにじっとりと、冷たい汗を掻いた。
「紘希はアホだし、じじぃは上手く騙してるみたいだけど、オレたちは騙されねーよ。
オマエ、
「わた、しは」
椅子に座っているはずなのに、その場に崩れ落ちそうだった。
目の前がぐるぐると回る。
「最近、紘希のヤツ、調子に乗ってるから、いいネタないかと付き合ってるっていうオマエを調べてみたら、まさかあの、西木の娘だったとはね」
わざとらしく彼が、声を上げて笑う。
「次期社長の嫁が、殺人犯の娘とかヤバいよなぁ。
あ、わるい。
殺人未遂犯かぁ」
ニタニタと笑う彼は、まったく悪いなんて思っていない。
それに私も、ショックが大きすぎてなにも反応できなかった。
「……わた、し、は」
「サンキューな、いいネタを提供してくれて」
最初から私が、紘希の足枷になるとわかっていた。
だからこそ結婚を躊躇ったし、紘希の将来が決まったら別れようと決めていた。
なのにこの頃の私は、このまま誰にも知られず、幸せな結婚生活が続けられるんじゃないかとか期待していた。
とんだバカで、笑いたくなる。
「まあ、アンタ次第じゃ、黙っていてやってもいいけど?」
醜く正俊の顔が歪むのを、怯えて見ていた。
幸い、なのか今日は私のほうが帰るのが早かった。
紘希のいない家で、大急ぎで荷物をまとめてしまう。
「どう、しよう、かな」
「くぅーん」
私の様子がおかしいと察しているのか、イブキが心配そうに手を舐めた。
「ごめんね、イブキ。
ママはいなくなるけど、パパをよろしくね」
「くぅーん」
また、イブキが淋しそうに鳴く。
それに後ろ髪を引かれそうになったが、私はここを出ていくと決めたのだ。
正俊が口止めに要求したのは、お金と私の身体だった。
予想どおりすぎて反吐が出る。
それに、それで本当に彼ら親子が黙っていてくれるのなら、そうしてもいい。
しかしそれでなおかつ、アイツら親子は紘希も脅すのだ。
きっと私たちは気づかないと思っているんだろうが、そんなのすぐにわかるに決まっている。
私が要求を呑まなければ、鏑木親子が私は殺人未遂犯の娘だと会社で声高に言いふらすのもわかっている。
――でもそのとき、私が紘希と別れていれば?
紘希くらい頭が回れば、いくらでも言い逃れができるはずだ。
だから私は当初の計画どおり、紘希の元から去ろうと決めていた。
「でも、迷っちゃうんだよ……」
意見なんて言ってくれないのはわかっていながら、イブキに尋ねる。
ぐずぐずしているうちに、紘希から今から帰ると連絡が入った。
早くここを出なければ、紘希に理由を話さなければいけなくなる。
それに結婚直後にあんなに離婚を拒否してきた彼だ、承知してくれないかもしれない。
……状況が変わった今となっては、わからないが。
紘希が帰ってくる前に出ていかなければいけないとわかっているのに、最後に彼の顔を見たいと思っている自分もいる。
「どーしよーかねー」
「くーん?」
私が首を傾げるのと一緒に、抱き上げたイブキが首を傾げた。
「イブキは、どう思う?」
「わん!」
私が遊んでいるとでも思ったのか、脳天気な顔で鳴き、イブキはぶんぶん尻尾を振っている。
「そうだね、ちょっとだけ、ちょっとだけイブキと最後に遊んでから出ていけばいいよね」
「わん!」
同意だと、イブキが鳴く。
イブキを理由に自分に言い訳をし、紘希の帰りを待った。
「ただいまー」
「お、おかえ、り」
紘希にキスされながら、ついぎこちなくなってしまう。
「なあ。
玄関にキャリーケース出てたけど、出張でも入ったのか?」
「えっ、あっ、うん。
そう」
慌てて答えながら、彼の目は見られない。
「ほんとに?」
すぐに異変に気づいたのか、彼は眼鏡がぶつかりそうな距離まで顔を寄せてきた。
「ほ、本当。
明日から、二泊三日」
「ちゃんと俺の目を見て言え」
どうにか誤魔化そうとするのに、紘希が顔を逸らせないように手で掴んでくる。
レンズの向こうの瞳は嘘を許さないと語っていて、たじろいだ。
「ほ、本当だよ」
それでも、思いっきり視線を逸らしながらも、まだ嘘を吐きとおす。
「嘘だね」
突き放すように彼が私から手を離す。
その目は酷く冷たかった。
怒らせた。
しかし、このまま喧嘩をすれば、家を出ていきやすくなる。
「正俊になんか言われたんだろ」
彼はソファーに乱雑に腰を下ろし、呆れるように短くため息をついた。
「えっ、あっ、いや……」
図星すぎてなにも返せない。
「アイツ今日、こっち来てたみたいだもんな。
仕事の用とかあるわけないし、目的はナンパか純華だろ」
「ええっと……」
正俊は紘希と同じく、子会社で一般社員として働いているが、威張り散らすだけでまともに仕事をしていない。
上司も社長である父親が怖くて注意できないらしい。
そんな調子なので、子会社よりもいい女がいるからとか迷惑な理由でしょっちゅう就業時間中にうちに来ては、女性を口説いていた。
「最近、どうにか俺に嫌がらせできないか画策しているみたいだし、そうなると純華に会いに来たに決まってる」
「うっ」
紘希には全部、わかっちゃうんだ。
というか、それだけ正俊が小物ってことなんだけれど。
「純華」
彼が自分の隣を軽く、とんとんと叩く。
強い瞳で命じられ、渋々そこに座った。
「なにを言われた?」
真っ直ぐに彼が私を見つめる。
絶対に俺が守る、レンズの向こうの瞳はそう語っていて、胸がじんと熱くなった。
「べ、別に?
紘希を裏切って俺の女になれとか、なんの捻りもなくて笑っちゃうよね」
それでもまだ、嘘を吐く。
本当の理由を知れば彼がどうするのかわかっているだけに、絶対に話したくない。
「なんでそんな嘘吐くの?」
さらりと言った彼からは、なんの感情もうかがえない。
「う、嘘じゃないよ」
こんなに視線を泳がせていればバレバレだってわかっていながら、さらに嘘を重ねる。
「俺の目を見て言えって言ってるよね?
見られないの?
見られないよね、嘘吐いてるんだから」
紘希がさらに追求してきて、追い詰められた私は。
「そうだよ!
嘘吐いてるよ!
嘘を吐く女なんて嫌いでしょ!?
だったら出ていくよ、バイバイ!」
逆ギレしたフリをして、勢いよく立ち上がる。
きっと紘希はこんな私に呆れて、怒っているはず。
本気で嫌いになってくれたら、もっといい。
そのまま一歩踏み出したものの。
「純華、落ち着け」
すぐに立ち上がった紘希が、私を抱き締めてきた。
「バカ、離せ!
私はもう、紘希なんて愛してないんだから……!」
手足を激しく動かし、ときには彼を殴るものの、紘希の手は少しも緩まない。
「絶対に離さない。
今離したらきっと、二度と純華に会えなくなる」
まるで私の痛みまで抱え込むように、私を抱き締める彼の手に痛いくらい力が入る。
「……嫌いだって、言ってるのに……」
彼の強い決意に圧され、次第に私の動きは止まっていった。
最後は力なく、拳でとん、とんと彼の胸を叩いて訴える。
「そんな泣きそうな顔して言われたって、全然説得力ねーんだよ」
慰めるように彼が私の背中を軽く叩く。
それでもう、完全に諦めた。