旅行から帰ってきたら、紘希に別れを切り出す。
そう、決めていた。
しかし、現実は。
「父さんが忙しいから、もうしばらく待ってとはな……」
夕食を食べながら紘希が憂鬱なため息をつく。
「お仕事なら仕方ないよ」
それに苦笑いで答えた。
彼の父親はなんだか面倒な裁判が入ってきたらしく、しばらくは息子の〝紹介したい人〟に会うほど余裕がないそうだ。
おかげで、これでまた紘希と一緒にいられる時間が延びた……とか、喜んじゃダメだよね。
「まあ、でも。
会社では純華と俺が付き合ってるってオープンにしたからいっかー」
嬉しくて堪らないのか、紘希の顔がデレデレに崩れた。
このあいだの仕事の成功で紘希が後継者になるのは決まったようなものだし、会長にも結婚を考えている人がいると伝えてある。
もうこれ以上、秘密にする必要はないからと関係をオープンにしつつあった。
とはいえ、結婚はさすがにまだ言えないし、吹聴して回っているわけでもないが。
「近いうちに今度こそ、結婚指環を見に行きたいな」
私が彼を受け入れたから、紘希は私が完全に彼との結婚を受け入れたのだと思っている。
本当は別れを決めたからなのに。
そういうのは、凄く苦しかった。
その日、仕事をしていたら紘希からメッセージが送られてきた。
【会長からランチ一緒にどうかって誘われたけど、どうする?】
どうする?って誘われたのは紘希なのに、なぜ私に聞く?
【行ってくればいいのでは?】
【行ってくればって、純華も一緒だけど?】
すぐに既読になり、新しいメッセージが上がってくる。
「……は?」
それを見て、間抜けにも一音発していた。
【なんで私も?】
私なんてただの一社員で、会長とランチに行くような立場ではない。
【俺の、将来の嫁の顔が見たいんだってさ。
顔合わせが伸びただろ、それで待ちきれないらしい】
あれか、会長は爺バカなのか。
いや、今までの言葉の端々からなんとなく紘希はお祖父ちゃんっ子のように感じていたし、さもありなんだ。
しかし、嫁の顔が見たいとか言われても、もうすぐ別れる予定なのに困る。
【どうする?
無理にとは言わないが】
迷っているあいだに、さらに紘希からメッセージが送られてきた。
しかも淋しそうに目を潤ませた眼鏡男子の「お願い」
なんてスタンプまで貼ってくる。
「あーうー」
ここまでされて私が行かないなんて言えるはずがなく。
【いいよ、わかった】
などと承知してしまっていた。
お昼休みになり、紘希に言われたとおり玄関ロビーで会長を待つ。
すぐにエレベータから降りた会長と紘希が見えた。
「純華」
会長と一緒だというのに、紘希がご機嫌に駆け寄ってくる。
「ちょっと!
会長、置いてきていいの?」
「あ、そうだった」
すぐに彼は振り返り、会長を迎えに行った。
「今日はランチにお招きいただき、ありがとうございます」
「いえ。
私もあなたの顔が見たくて、わがまま言ったものですから」
柔らかく会長が笑う。
柔和なお爺ちゃんといった感じだが、曲がったことが大っ嫌いで相手が官僚でも平気で怒鳴りつける。
そんな彼がどうして、あの鏑木社長を野放しにしているのかは不思議だ。
予約してくれていた、徒歩圏内にある料亭へと向かう。
仲居がおしぼり等を出して下がったあと、紘希は私を会長に紹介してくれた。
「えっと。
俺が結婚……を考えている、瑞木純華さん」
会長を前に、紘希は珍しく緊張している。
さすがにまだ、結婚したとは言いづらいらしい。
「瑞木です。
ふつつか者ですが……」
「そういう堅苦しい話は抜きにしましょう」
これでいいのか悩みながら挨拶をしていたら、会長に遮られた。
「まだ正式に結婚も決まっていないのに、孫が結婚相手に連れてきた方の顔が早く見たくて、じじいがわがままを言ったのです。
今日は気楽な食事会ですから、そんなに緊張しないでください」
「はぁ……」
会長は笑っているが紘希の祖父というだけでも緊張するのに、さらには弊社の会長なのだ。
気楽になんて無理に決まっている。
ランチのメニューは決まっているので、すぐに料理が出てき出す。
「瑞木さんの惚気は散々、紘希から聞かされていましてね」
「そ、そうなんですか」
ちらりと紘希を見たが、視線を逸らされた。
いったい、なんの話をしていたのか気になるが、聞くほどの勇気はない。
「そんなに紘希が惚れている相手なら間違いないだろうと思っていましたし、このあいだお話を伺ったときも大変しっかりしていらっしゃった」
思い出しているのか、うん、うん、と会長が頷く。
このあいだとは育児中社員のフォローで話を聞かれたときの件だろう。
「しかもああいうときは不満ばかり出てくるものですが、相手の方も気遣っていらした。
紘希からあなたと結婚したいのだと聞いて、嬉しく思ったものです」
「えっ、あっ、そんな、畏れ多いです」
会長が私に微笑みかけ、その優しげな顔に頬が熱を持っていく。
紘希の、あのすぐ私を惑わせる笑顔は、祖父譲りらしい。
食事をしながら、和やかに話は進んでいく。
「その後、お仕事はいかがですか?」
「おかげさまでずいぶん、楽になりました」
またイベントが動き出し少しずつ忙しくなっていっているが、この分ならイベント直前でもない限り、休日出勤や夜遅くまで残業したりしないで済みそうだ。
「それに、彼女に優しくなれたのでよかったです」
ずっと、余裕がないせいで加古川さんに対して当たりがきつくなっているんじゃないかと、気にしていた。
彼女だって仕方ないのに、不満が態度に出ているんじゃないか。
気にはしていたが、忙しい私はそこまで気を回せなかった。
でも、余裕ができて、彼女に対して寛容になれた気がする。
「それはよかったですね」
「はい」
あんな私の悩みを聞いても、紘希も会長も私を責めなかった。
それだけで、この会社に入ってよかったと思ったものだ。
「祖父ちゃん、純華を気に入ってたみたいでよかったな」
「そうだね」
会長は秘書が迎えに来たので、紘希とふたりで会社に戻る。
「これで祖父ちゃんの許可は出たも同然だし、早くうちの親に純華を紹介したいなー」
「そう、だね」
会長はやはり、私の正体に全然気づいていなかった。
家族についてまったく聞かれなかったのもあるが、このまま知られずにいられるんじゃないか、そんな期待が首をもたげてくる。
そもそも、そのために両親は離婚したのだ。
もしかして私は、死がふたりを分かつまで紘希と一緒にいられる?
そう、期待したが――。