契約の日、矢崎くんは私が選んだネクタイに、それよりワントーン色の濃い、ネイビーの三つ揃えだった。
「どうだ?」
私と目があい、彼がわざとらしくポーズを決めてみせる。
「格好よくて惚れ直しちゃう」
これは正直な感想だ。
いつもよりも気合いが入っているからか、今日の矢崎くんは普段よりも数倍素敵だ。
「よしっ、純華が格好いいって言ってくれたから、頑張れる!」
なんか滅茶苦茶気合い入っているけれど、そんなに?
私には理解できないが、彼の役に立ったんならいいか。
……あ、そうだ。
これだけでこんなに喜んでくれるなら、あれもやる気になるのかな……?
ちょいちょいと手招きしたら、矢崎くんは不思議そうだけれどすぐに寄ってきた。
しかし彼と私の身長差では、背伸びしても届くか怪しい。
さらに手招きすると、顔を近づけてくれた。
腕を伸ばしてその首に回し、引き寄せるようにしながら背伸びする。
なにが起こっているのかわかっていない彼にかまわず、唇を重ねた。
「……頑張ってね」
唇を離し、眼鏡越しに見つめあったままにっこりと笑う。
途端に彼は眼鏡が汚れるなどかまわず手で顔を覆い、崩れるようにその場にしゃがみこんでしまった。
「……純華は俺を殺す気か」
「は?」
手まで真っ赤に染め、彼がなにを言っているのかわからない。
「無自覚なんだもんなー、こえぇよな」
しばらく気持ちを落ち着けるように深呼吸したあと、ようやく矢崎くんは立ち上がった。
「ええっ、と?」
眼鏡を拭きながら彼はうんうんとひとりで頷いているが、完全に私はおいてけぼりだ。
「でもおかげで滅茶苦茶やる気出たわ。
もー、俺は無敵!って感じ。
ありがと」
今度は矢崎くんのほうから、軽くちゅっと唇が重なる。
とにかく、私が思った以上に彼は喜んでくれたみたいだし、よかったな。
仕事中はなんとなく、落ち着かなかった。
……今頃矢崎くんは、契約の最中なんだよね。
私にはなにもできないが、とにかく上手くいくように祈ろう。
とはいえ、何度も携帯の通知をチェックしてしまう。
今日、契約が結ばれれば夜は接待だと聞いていた。
万が一、失敗のときはそれがなくなるから、晩ごはんがいるので連絡するとも。
だから、なにもないのがいい知らせ、なのだ。
「よしっ」
終業時間になっても、矢崎くんから連絡はなかった。
きっと、上手くいったんだと思う。
確認じゃないけれど、帰りに営業部のフロアに行ってみる。
誰かに聞いてみるとか、ましてや矢崎くんに直接確認するとかじゃなく、雰囲気でなんとなくわかるもんね。
ここ数年で一番大きな契約だ、失敗していればお葬式ムードになっているはず。
私の予想どおり、営業部のフロアには活気が溢れていた。
契約は上手くいったんだと確信し、その場をあとにしようとする。
そのとき、ちょうど奥の部屋から出てきた矢崎くんと目があった。
私を見て少し驚いた顔をしたあと、強調するようにネクタイを少し引っ張った横で、もう片方の手を使ってOKマークを作る。
それにうんうんと頷いた。
これは成功で間違いないな。
忙しそうだし、声はかけないままフロアを出た。
矢崎くんもすぐに、仕事モードに入っていたしね。
家に帰り、矢崎くんはいないのでイブキ相手にごはんを食べる。
「パパ、お仕事上手くいったんだってー。
よかったね」
「あん!」
意味がわかっているのか、イブキが元気に鳴く。
「よかったん、だけどさー……」
声は次第に消えていき、最後は物憂げなため息に変わった。
これで、矢崎くんとの夫婦ごっこは終わり。
いつ、別れを切り出そう?
それ以前に、上手く矢崎くんを説得できるかが心配だ。
「ただいま!」
くらーい気分でくらーいホラー映画を観ていたら、矢崎くんが帰ってきた。
「今日は純華のくれたこのネクタイのおかげで、成功したぞ!」
ソファーにいる私の隣に座り、抱きついて熱烈にキスしてくる。
滅多に酔わない矢崎くんだけれど、今日はちょっと酔っているのかな。
それだけ嬉しいんだろうし、プレッシャーから解放されて気が抜けているのもあるだろう。
「お役に立てたんならよかったよ」
無理矢理でも笑顔を作って彼の顔を見上げる。
私が今、いつ別れを切り出そうか悩んでいるなんて知られてはダメだ。
「会長から近いうちに今後について話をしようって言われたし、これで純華を家族に紹介できる。
待たせたな」
うっとりと矢崎くんの手が私の髪を撫でる。
「……うん、ありがとう」
しかし私の心は、どんどん重くなっていく一方だった。
上手く笑えているかすら、不安になる。
でも、ちょっとテンションの高い今日の矢崎くんは気づいていなくて、助かった。
「結婚式、どうする?
純華のドレス姿は絶対、綺麗だろーなー。
あ、でも、和装も捨てがたく……」
想像しているのか、彼は真剣に悩んでいる。
それを、笑顔を貼り付けて見ていた。
……私もウェディングドレスを着て彼の隣に立ちたかったな。
でもそんなの、私には許されない。
許されないのだ……。