土曜日、矢崎くんは休日出勤だった。
「パパがいないと淋しいねぇ」
「あん!」
同意するようにイブキが鳴く。
契約は来週。
上手くいけばいいと思うのと同時に、破棄になればいいと願っている自分もいる。
そんなの、矢崎くんは酷く落ち込むし、彼の将来にも関わってくるのはわかっているのに。
でも、ダメになれば彼の社長への道は遠のき、私を家族へ紹介するのが伸びる。
そうなればもっと長く、彼と一緒にいられるのだ。
「ああ、もう!」
自分のいけない考えを振り払うように、思いっきり両手で顔を挟んで頬を叩いた。
私は、矢崎くんに幸せになってほしい。
だからこそそのときが来たら別れようと決めたのではないか。
なら、契約がダメになるようになんて思ってちゃダメだ。
しばらく遊んで満足したのか、イブキは矢崎くんのクッションの上で眠ってしまった。
「私も矢崎くんに、なにかできないかな……」
私が忙しいときは、本当にいろいろ支えてもらった。
家事を負担するくらいでは返しきれない。
かといって私も、矢崎くんみたいに仕事を直接手伝うとかできないわけで。
「ううっ」
なにも思いつかなくてソファーに倒れ込む。
イベントの手伝いに来てくれた若手に奢る焼き肉代も、私が負担するって言ったのに矢崎くんは出させてくれなかったし。
自分のものは自分で買うって言っているのに、「純華が可愛いと俺も元気になれるの」とか謎理論で払っちゃうし。
とにかく、甘やかされっぱなしなのだ。
「私もなにか、矢崎くんにプレゼントしたいな……」
うだうだと彼が喜んでくれそうなもの、最低でも迷惑にならないものを考える。
「……そうだ」
思いついたものがあって、勢いよく起き上がった。
眼鏡はどうだろう?
イベントのときに私が踏んで壊して以来、矢崎くんは予備の眼鏡を使っている。
弁償するとは言ってあるが、引っ越しからのこっち忙しくて、うやむやになっていた。
今日はお昼過ぎには帰ると言っていたし、どこかで待ち合わせして見に行ったらいいんじゃないだろうか。
善は急げとばかりに携帯を手に取り、眼鏡を見に行かないかとメッセージを送る。
少しして、喜んでいるメッセージとともに終わったら連絡すると返ってきた。
「よしっ」
このときはいいプレゼントが決まってよかったとうきうきだったけれど、……とんでもない結末が待っていたのです。
昼食は食べてくるとのことだったので、私も外で済ませようと早めに準備をする。
最近は前よりもお洒落をするようになっていた。
おかげで会社では、急に綺麗になったと噂されていた。
のはいいが、「恋人でもできたのか? いや、ありえない」には笑ってしまう。
でも、それが今までの私の評価だったのだ。
「イブキー、ちょっと出てくるからおとなしくお留守番しててねー」
イブキをケージに帰し、ペットカメラの位置を調整して家を出た。
待ち合わせの駅近くで昼食を摂り、あたりをうろうろする。
「スーツ……」
紳士服店のショーウィンドウを見ながら、勝負服でスーツもありだったなといまさらながら思った。
でも、矢崎くんは会社用のスーツはセミオーダーしていると言っていたし、間に合わないな。
でも。
店に入り、ネクタイを物色した。
これならすぐに使えるし、あのタイピンが映えるものにしたら喜んでくれないかな?
それにプレゼントは多くてもいいのだ。
お店の方の意見も参考に、悩んで濃紺の無地ネクタイに決める。
暗い色に明るいアクアマリンはよく映えるからね。
「ありがとうございました」
お店を出たところで携帯が鳴った。
矢崎くんから今、電車に乗ったとメッセージが届いている。
了解だと返し、私も駅へ向かった。
「待たせたな」
「全然」
改札の前で彼と合流する。
「どこに行く?」
「あー……。
純華の好きなところでいいよ」
「もうっ!
私の好きなところって、矢崎くんの眼鏡を買いに行くんだよ?」
曖昧に笑って答える彼が不満で、唇を尖らせる。
「だって俺の行きつけのところだと、レンズ代が……その、な」
しかし、なんか適当な感じで矢崎くんは誤魔化してきた。
「レンズ代がなんなのよ」
「うっ」
私に詰め寄られ、彼が声を詰まらせる。
どうどうと手で私を宥めるようにし、しばらくは視線をあわせないようにしていたが、そのうち諦めたかのようにため息をひとつ落とした。
「……レンズ代がバカ高いんだ」
「は?」
彼がなにを言いたいのかいまいちわからない。
ファストのレンズ込みのお店じゃないから、高いってこと?
それくらい、織り込み済みだ。
「レンズ代が別にかかるのくらい、いいけど?」
「別にかかるとかいう次元の問題じゃなく、……オーダーだから十万単位でかかるんだ」
「……は?」
理解すると同時に嫌な汗をだらだらと掻いた。
もしかして……。
「……ちなみに。
私がこのあいだ壊した眼鏡って、どれくらいするの?」
「……知らないほうがいい」
すーっと気まずそうに矢崎くんがレンズの向こうで目を逸らす。
それでさらに、汗が噴き出てきた。
「……なんか、ごめん」
申し訳なさすぎて、スーツの袖を軽くちょんと摘まんで俯く。
そんな恐ろしく高い眼鏡がこの世に存在するなんて知らなかった。
しかもあの眼鏡は私たちが結婚する少し前にできたといっていたのだ。
「いや、別にいい。
形あるものはいつか壊れるんだし。
それに、あの眼鏡が壊れたおかげで、今日は純華が俺の眼鏡を選んでくれるんだろ?
これはこれでラッキーだ」
慰めるように彼が、私の頭を軽くぽんぽんと叩く。
「……ありがと」
矢崎くんはやっぱり優しいな。
だから、好きなんだけれど。