目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第21話

最後、私が熱中症で倒れると実に不甲斐ない結果で終わったものの、イベント自体は概ね成功だった。

会長から呼ばれ、ママさん社員のフォローの現状についても聞かれた。

仕事が、いい方向へ動いているのを実感する。

でもきっと、私がこの会社にいるのはあと少しだ。

矢崎くんと離婚となれば、もうここにはいられない。


「純華ー、終わったかー?」


「もう終わるー」


廊下に顔を出し、矢崎くんに答える。

イベント翌週、予定どおり私たちは新居に引っ越しした。

といっても、彼が荷造りから荷解きまでのフルサービスで手配したので、やることはほとんどない。


「なあ。

やっぱり家具も家電も全部買い替えたほうが……」


「うっさい」


「んんっ!」


文句を言う矢崎くんの唇を摘まんで封じてやる。


「拘りの家を建てたときに、拘りの家具を揃えるって決めたでしょ?」


引っ越しに伴い、家具家電の買い替えで矢崎くんとは揉めた。

だって、全部買い替えようとか言うんだよ?

もうかなり使い込んでいるとかならまだしも、矢崎くんちの冷蔵庫と洗濯機は買い替えたばかりだというし。

どうせ、家を建てたらまた買い替えるとか言い出すのだ。

なら、今までのをそれまでは使えばいい。

それに新居での生活は長く続かないのだから、無駄なお金を使わせたくなかった。


「明日は犬、見に行くんだっけ?」


「そう」


新居初日の晩ごはんはピザを取った。

ほとんど引っ越し業者任せといっても、やはり疲れている。


「楽しみだね、豆柴」


「そうだな」


楽しみで仕方ないのか、彼はもう今からそわそわしっぱなしだ。

大型犬は散歩のときなどに私の手に余るかもと、避けてもらった。

矢崎くんからも異存はなかったし。

一緒に見た画像の黒柴は凄く可愛くて、私も楽しみだ。

それに私も、早く犬をお迎えしたかった。

犬がいれば私がいなくなっても、矢崎くんが淋しい思いをしないで済むかもしれないから。




「ほら、パパは忙しいんだから、あっちでママと遊ぼうねー」


矢崎くんの脚に絡む、仔犬を抱き上げる。


「くぅーん」


仔犬が淋しそうに声を上げ申し訳なくなったが、そこは心を鬼にした。

早く行ってと、矢崎くんに目配せをする。


「すまん、イブキ!

仕事が片付いたら、存分に遊んでやるからなー!」


涙を堪えるように、彼はリビングを出ていった。

そんな大げさな、なんて笑ってしまったが仕方ない。


「さて、イブキ。

なにして遊ぼうか」


「きゅぅん」


床に仔犬を下ろしたが、仔犬はいつも矢崎くんが使っているクッションの上で、丸くなってしまった。


「そっか。

イブキも淋しいのか。

しばらくパパに遊んでもらってないもんね」


「きゅぅん」


横に座って頭を撫でるとまた、仔犬が声を上げる。

引っ越しが終わったのを見計らったかのように、今度は矢崎くんの仕事が忙しくなっていった。

おかげで、せっかくお迎えした仔犬ともあまりふれあえていない。


「これが終わったら落ち着くからさー。

そうしたらいっぱい、遊んでもらえるよ」


「あん!」


意味がわかったのか仔犬が嬉しそうに鳴く。

でもそれは私と矢崎くんとの関係の終わりを意味していて、苦しくなった。




朝ごはんの準備をしていたら、矢崎くんが起きてきた。


「わるい、純華!

寝坊した!」


「夜遅くまで仕事してるんだから仕方ないよ。

もうできるから、顔洗ってきてー」


「ほんとにわるい!」


何度も詫びながら彼がリビングを出ていき、苦笑いしてしまう。

最近は以前と立場が逆転していた。

私は担当していたイベントも終わり、今は暇な期間に入っている。

さらに仕事が見直され、加古川さんのフォローが少し楽になった。

それにもうすぐ、辞めたあと補充されなかった社員も入ってくるという。

仕事に余裕ができた私とは反対に、矢崎くんは例の雑貨店との契約が大詰めで大忙しだ。

家に帰ってからも遅くまで、仕事をしている。

そんな状態なので、家事負担も当然変わるわけで。


「ごめんなー。

このところ毎日、純華に朝食作らせて」


食卓に着いた矢崎くんは、申し訳なさそうに朝食を食べている。


「いいって。

それに今までずっと、矢崎くんに作ってもらってたし」


「ううっ、俺が純華のお世話したいのに……」


そうなのだ、矢崎くんは私のお世話をなんでもしたがって、いくら言っても家事を一切、やらせてくれなかった。


「私だって矢崎くんのお世話がしたいって言ったでしょ?

だから全然いいよ」


今の私はやりがいのようなものを感じていた。

私が、矢崎くんを支えている。

そんな、満足感。

彼がやたらと私のお世話をしたがる気持ちがわかった。


「それにさ、やることほとんどないし」


苦笑いを彼に向ける。

新居に移ってからも、矢崎くんは家政婦さんを雇っていた。

家事のほとんどを家政婦さんがやってくれているので、私がやることはほとんどない。


「今日の朝ごはんだって、お味噌汁作って塩鯖焼いただけだよ」


もはやこれは作ったといえるのかも疑わしい。

出汁は家政婦さんが取って、ボトルで常備してくれているしね。


「それでもさー」


まだうだうだ矢崎くんは言っていて、もう笑うしかできない。


「家事なんて手が空いてる人がやればいいんだよ。

今は矢崎くんが忙しいから、私がするだけ。

落ち着いたらまた、作ってもらうし。

というか、お味噌汁は矢崎くんが作ったののほうが美味しい」


「そうか!

じゃあ、仕事が片付いたらまた、作ってやるな!」


矢崎くんの顔が輝き、一気に上機嫌になる。

これくらいで喜んでくれるなんて、チョロくてよかった。

でも、そういうところが可愛いと思っているのも事実だ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?