イベント三日目。
最後まで何事もなく終わりますように、なんて私の願いは虚しく終わった。
早めに会場入りし、確認をしている私の携帯が鳴る。
相手は、加古川さんからだと表示されていた。
「はい」
『おはようございます、瑞木係長。
加古川です』
「はい、おはようございます」
『すみません、子供の調子が悪くて、今日はお休みさせてもらえないでしょうか』
そうならなければいいという予感は的中するものだな、とつくづく思う。
「他に面倒見てくれる人はいないんですか?
旦那さんは?」
『主人は今日、あいにく仕事で。
母も遠方へ行っているものですから』
「そう、わかりました。
お大事になさってください」
電話を切ると同時に大きなため息が落ちる。
薄々、こんな予感がしていた。
だからこそ彼女を司会にするのは避けたほうがいいんじゃないかと、上司に提言したのだ。
しかし上司は本人がやりたいと言っているんだからやらせてあげればいい、だし。
加古川さんも加古川さんで万が一、子供の具合が悪くなっても旦那か母親に面倒見てもらえるから大丈夫だと言っていたのだ。
それがこれだ。
しかもあの口ぶりだと、母親は前から今日は旅行の予定でも入っていたんじゃないだろうか。
「あー、もー」
しかしうだうだ文句を言ったところで急にお子さんが全快したり、旦那さんの仕事がなくなるわけでもない。
それにこうなることを見越して、準備をしてきたのだ。
司会の段取りと台本はしっかり頭に入っている。
「どうした?」
私が頭を抱えているからか、矢崎くんが心配そうに聞いてくる。
「やるしかないよね!」
気合いを入れて勢いよく頭を上げた瞬間。
後頭部がなにかにぶつかった。
「いてっ!」
同時に矢崎くんの悲鳴が聞こえてくる。
「へ?」
見たら彼が、額を押さえてうずくまっていた。
状況的に私に頭が彼の額にぶつかった?
「えっ、あっ、ごめ……!」
不幸とは続くもので。
今度は一歩踏み出した、私の足の下で、嫌な音がした。
別のものであってくださいと祈りながら足を上げたが、そこには無残な姿になった彼の眼鏡が転がっていた。
「おっまえなー」
矢崎くんは完全にお怒りモードだが、これは弁明の余地がない。
「えっ、あっ。
……ごめん」
無駄と知りながら壊れた眼鏡を捧げ持って彼に差し出す。
眼鏡は片方の弦が取れ、レンズにもヒビが入っていた。
「どうするんだよ、これ!」
「ベ、ベンショウシマス……」
あまりの彼の怒りっぷりに、言葉は片言になって消えていく。
「まあ、不用意に純華を見下ろしてた俺も悪いけどな」
矢崎くんは諦めるように小さくため息をついた。
彼の手が私の頭に伸びてきたけれど、それは空振りに終わる。
どうも、見えていないようだ。
「悪いけど、いったん帰って予備の眼鏡取ってくる」
「それよりも店開いてから新しいの作ったほうが早くない?
弁償するし」
モールには眼鏡店が何店か入っているし、ファストのお店もある。
片道一時間以上かけて取りに帰るより、そっちのほうが早そうだ。
「あのなー。
俺、乱視が酷くてレンズは取り寄せなの。
その日にできないの。
わかった?」
「わ、わかった」
見えないからか距離感のおかしい矢崎くんに詰め寄られ、背中が仰け反った。
「じゃ、じゃあ、今日はもういいよ。
なんとかなると思うし」
矢崎くんが営業部の若手を三人も寄越してくれているおかげで、休みが出ても当初の予定よりもスタッフは多い。
それに三日目となればみんな慣れてきて、少し余裕ができるはずだ。
「嫌だ、戻ってくる。
俺がいないと純華、絶対無理するからな」
「うっ」
昨日も彼から声をかけられるまで、水分を摂るのも忘れて走り回っていた。
「わ、わかったよ……」
彼の心配は当然で、引き攣った笑顔でそれを了承した。
眼鏡はとりあえず、セロハンテープで弦をぐるぐる巻きにして応急処置する。
「それで、なにがあったんだ?」
呼んだタクシーが来るまでのあいだに、矢崎くんが聞いてくる。
この距離をタクシーなんて、なんと贅沢な!
さすが御曹司は違うな!
とか思ったが、よく見えないのに公共の交通機関は危険だよね。
「あー、加古川さんが子供の調子が悪くなって出られないって」
仕方ないよねと曖昧な笑みで答える。
「は!?
加古川って司会のヤツだろ?
大変じゃないか!」
矢崎くんは慌てているが、まあそうだよね。
「大丈夫だよ。
司会の段取りと台本は全部、頭に入れてあるし。
別に慌てるほどのことじゃないって」
「……純華は大変だな」
彼の手が頭にのり、慰めるように撫でてくれる。
それでくさくさしていた気分が幾分和らいだ。
「よし、引っ越しして落ち着いたら、旅行に行こうぜ。
お疲れ様旅行?
新婚旅行はまた、別に行くけどな」
「いいね」
ちょっと楽しみだな、矢崎くんとの旅行。
それにこれが、きっと最初で最後だし。
そのうち、タクシーが到着する。
彼ひとりだと足下が危ないので、乗るまでちゃんと見届けた。
「急いで戻ってくるけど。
ちゃんと水分摂って、少しでも休めよ?
今日、特に暑いからな」
「うん、わかったよ」
「絶対だからな」
念押しする彼がおかしくて、笑ってしまう。
しかしこれが、フラグだなんて誰が思うだろう?
朝のミーティングで加古川さんの休みと、代わりに私が司会をすることを発表する。
多少の驚きはあったが、大きな混乱はなかった。
ステージに立つと、緊張した。
みんなには大丈夫だと言い切っていたが、私は司会が初めてなのだ!
それでも入社以来、たくさんのイベントに関わってきたし、今日の段取りと台本はすべて頭に入っている。
きっと上手くいくと言い聞かせ、足を踏み出した。
……のが、十時間前。
「お姉さん?」
「あっ、はい。
そうですねー」
ゲストから声をかけられ、慌てて意識をステージに戻す。
さっきから集中していないと、疲れて意識が飛びそうだ。
大変なのは知っていたが、これをこなしている加古川さんを尊敬する。
でも、あと少しだから。
「本日はご来店、ありがとうございました。
これですべてのイベントは終了です。
今後もニャオンモールをよろしくお願いいたします」
頭を下げた瞬間、私は真っ白に燃え尽きていた。
頭が、ガンガンする。
周囲の声が、遠い。
それでも最後の気力でステージを下りる。
「純華!」
階段を踏み外したのはわかった。
すぐに誰かが、支えてくれる。
「身体熱い。
おい、きゅうきゅう……」
「……それは、ダメ……」
私がぐったりしているのに気づき、周囲のスタッフが寄ってくる、救急車を呼ぼうとした声を、止めた。
「支えてくれたら、歩ける、から……。
タクシー、呼んで……」
「わかった」
支えてくれた彼――矢崎くんが私を抱きかかえる。
人前でお姫様抱っことか恥ずかしすぎるが、それを抗議するほどの力はない。
すぐにスタッフがのせてくれた、氷の袋が気持ちいい。
「俺が病院に連れていってくる。
あと、任せられるか」
「はい!」
矢崎くんに声をかけられ、その場にいた全員が頷いた。
病院で熱中症だと診断され、点滴を受ける。
「……ごめん、迷惑かけて……」
あんなに矢崎くんから、水分を摂って少しでも休めと言われていた。
でも、今日の自分は目の前の仕事でいっぱいで、全然できていなかった。
「謝らなくていい」
頭を撫でる、矢崎くんの手は優しい。
しかしそれはますます私を情けなくしていった。
「……ダメだな、私。
自分のことで手一杯で、周りが全然見えてなくて……。
こんなんじゃ現場責任者、失格だ……」
初めて任された現場責任者の仕事、上手くやるんだってそればっかりで結局、みんなに迷惑をかけてしまった。
どんなに反省してもしたりない。
「純華は頑張ったよ。
司会しながら現場も回してたんだろ?
そんなの、俺だって倒れる。
純華は頑張ったよ、偉いよ」
「そ、そうかな」
気休めで言ってくれているのはわかっている。
それでも、彼の優しい言葉がじわりと心に染み、涙が浮いてくる。
「純華は偉い。
こんなに頑張る人が奥さんで、俺は誇らしいよ」
ちゅっと軽く、彼の唇が私の唇に重なった。
それが、くすぐったくて、嬉しい。
「……もう一回、して」
「ここ、病院だけどいいのか?」
からかうように小さく彼が笑う。
「……誰もいないから、いい」
「わかった」
もう一度、彼の唇が重なる。
今日くらいは、甘えていい。