担当しているイベントが近づき、忙しくなっていく。
「……はぁーっ」
家で夕食を食べながら、大きなため息が落ちた。
ちなみに今日のメニューは冷食のハンバーグと家政婦さんの作り置きお惣菜、あとは矢崎くんが作ってくれたスープだ。
「どうした、そんなに大きなため息ついて」
苦笑いで矢崎くんが聞いてくる。
「チームの子が入院しちゃってさ……」
また私の口からはぁっと憂鬱なため息が漏れた。
足を折って入院したのは仕方ない。
しかし、その理由が階段を自転車で下っていてというのが解せない。
「『なんだかイケそうな気がしたんですよねー』って、小学生男子じゃあるまいし……」
再びため息が出る。
仕事の合間を縫って見舞いに行ったら彼は笑っていたが、笑い事ではない。
誰も巻き込まず、足一本で済んでよかった。
いくら酔っていても、やっていいことと悪いことがあるのだ。
そもそも自転車でも飲酒運転は禁止されている。
それも含めてこってり絞ってやったが。
「あー……。
それはちょっと、わかる、かも」
遠い目をしたあと、矢崎くんは笑って誤魔化してきた。
「えっ、ちょ、やめてよね!」
もしかして彼も、同じように自転車で階段下りがしたいのだろうか。
そんなバカな行動はしそうに見えないのだけれど。
「いや、しない、しないよ。
でも、酔ってるときってちょっと、童心に返るっていうか。
……だから。
イケそうな気はするけど、実行するほどバカじゃないって」
私に不審の目を向けられ、慌てて矢崎くんが否定してくる。
彼でもそんなことを考えるのだとちょっと意外だった。
でも本当に、実行はしないでいただきたい。
「まあ、怪我しちゃったもんは仕方ないけどさー。
人手が足りないんだよ……」
今回、うちの課では同日にイベントをふたつ抱えていた。
なんでそうなったのかって、もうひとつのイベントにトラブルが発生して延期になり、偶然重なってしまったのだ。
当然、課内の人間はふたつに分けられるわけで、いつもよりも人数が少ない。
なのに階段自転車下りなんてバカなことをやって足を折り、一人がリタイヤしてしまったのだ。
「うー、あー」
唸るばっかりでいい考えは出てこないし、食事も当然進まない。
「大変だな」
矢崎くんは完全に他人事だが、事実そうなんだから仕方ない。
「そうなんだよ」
それでなくても、もうひとつ重大な懸念案件を抱えているのだ。
これ以上、私を悩ませないでほしかった。
「じゃ、俺が手伝ってやろうか」
「は?」
なにを言っているのかわからなくて、まじまじと矢崎くんの顔を見る。
「いつもお世話になってるしな。
うちから数人、若いのも出してやるよ」
「え、ほんとに?」
それは渡りに船だが、本当にいいんだろうか。
「でも、上司の許可とか大丈夫なの?」
いくら彼がよくても、上の許可が取れなければ無理だ。
「んー、部長は俺のいうこと、なんでも許可してくれるぞ。
だから大丈夫だ」
「……は?」
なんでもないようにさらりと彼は言っているが、それはいくらなんでも上司としてはダメなのでは?
「え、矢崎くんが跡取りだと知ってて、好き勝手やらしてくれてる……」
「とかあるわけないだろ」
言い切らないうちに被せるように彼が否定してくる。
「デスヨネー」
あまりに自分の失礼具合に恐縮してしまい、もそもそとハンバーグを口へ運んだ。
それに矢崎くんが跡取りなのは身内しか知らないと言っていたし、営業部長は会長一族の人間ではないはずだ。
「それだけ俺が頑張って、信頼を勝ち取ったの。
だから部長はなんでも許可してくれる。
わかった?」
淡々と彼は語っているが、これは絶対に怒っている。
自分の軽率な発言を深く反省した。
矢崎くんは人一倍頑張っている。
それは近くにいる、私が一番わかっているはずなのに。
なにも考えず、あんなことを言ってしまった自分が嫌になる。
「わかった。
ごめん」
「いい。
それに純華は自分が悪いと思ったらすぐに謝るから、俺は好きだよ」
私と視線をあわせ、眼鏡の下で目尻を下げて彼がにっこりと笑う。
その顔に頬が熱を持っていった。
「ありがとう。
でも、本当に酷いことを言ったと思う。
ごめん」
「だから、そんなに謝らなくていいって」
「でも……」
私だったら自分の努力を否定するようなことを言われ、絶対に傷ついていた。
矢崎くんだって傷つくはずだ。
かといって一度口から出てしまったものを、取り消しはできないが。
「んー、そこまで言うならあとで、お詫びしてもらおうかなー?」
レンズの向こうできゅるんと、なにか企んでいるように矢崎くんの瞳が光る。
「う、うん」
それを見ながら、これも軽率な行為だったんじゃないかと後悔していた。
「それで。
きっと、部長から許可出るから心配しなくていい。
俺も手伝うし、うちから若いの何人か出すよ。
雑用係くらいできるだろ」
「うん、ありがとう」
素直にお礼を言う。
人手が増えるのは大助かりだ。
「そっちの上にも俺から話を通しとくし。
だから純華はイベントのことだけ考えとけ」
「あいたっ」
身を乗り出してきた彼が、軽く私の額を弾く。
痛む額を押さえながら、プライベートだけじゃなく仕事も支えてくれるなんて、矢崎くんはスーパー旦那様だな、なんてバカなことを考えていた。