翌日は私たちが出した条件から不動産屋さんが探してくれた物件を見に行った。
といっても、私からは「できるだけ小さい家」以外に条件はなかったけれど。
「……あのさ」
まず、通されたリビングから庭を見て、ため息が漏れる。
「なに?」
私に声をかけられ、不動産屋さんから説明を受けていた矢崎くんは振り返った。
「池が、あるんだけど」
広い庭には錦鯉が棲んでいそうな立派な池があり、その傍らには松まで生えている。
「なんだ、池が不満か?」
私の隣に立って掃き出し窓を開け、矢崎くんは庭を見た。
「普通の家には池なんてないんだよ!」
「祖父ちゃんちにはあるが?」
全力でツッコんだが、さらりとかわされる。
「そりゃ、会長の家ならあるかもしれないけど……」
なにせ戦前は財閥に属していた会社なのだ、会長の家が池付き大豪邸だったとしても驚かない。
でも、これは私たちの家の話なのだ。
「私はこぢんまりとしたお家がいいと言ったはずですが?」
わざと敬語で、矢崎くんに詰め寄ったものの。
「だからこぢんまりとした家にしたが?」
なにを聞かれているのかわからないというふうに、眼鏡の奥で彼が何度か瞬きをする。
それをなんともいえない気持ちで見ていた。
あれか、矢崎くんの家の基準は、会長の家なのか。
だとしたら仕方な……くなーい!
「これは豪邸の部類だよ、豪邸の!」
和モダンの家は間取りこそ4LDKとファミリータイプとしては普通だが、リビングだけで十人以上呼んでパーティができるんじゃないかというほど広い。
「矢崎くんの実家だって、こんなに広くないでしょう!?」
「これくらいだが?」
「は?」
さらりと返され、思わず変な声が出た。
〝普通よりも少し裕福〟って言ってなかったっけ?
矢崎くんの〝普通〟ってどういうレベルなんだろう……?
「……もー、いい」
これは考えても無駄なのだ。
矢崎くんにとってこの家を借りるくらい、軽いみたいだし。
「なんだ、不満なのか。
だったら別の家を探してもらうか」
「……もっと小さい家でお願いできますかね?」
「これでも小さいほうなんだけどな……」
矢崎くんは盛んに首を捻っていて、もう疲れてきた。
それに普通の建て売りより若干大きいくらいを提案しても、今度は矢崎くんから不満が出そうだし。
「……ちなみにここの家賃、いくら?
あ、いや、今住んでるタワマンとどれくらい違うの?」
具体的な金額を聞いたって彼のことだから教えてくれないだろうし、彼にとってどれくらいの負担なのかも私にはわからない。
なら、現状との違いで把握したほうがわかりやすそうだ。
「あんまり変わらない……?」
不動産屋さんが矢崎くんに近づき、手に持つファイルを見せている。
きっと、家賃を確認したのだろう。
「というか若干、安いな」
ありがとうと矢崎くんが不動産屋さんに頷く。
「そっかー……」
家賃がほぼ現状維持ならばいいような気もするが、それよりもここよりも賃料が高いというあのマンションはいったいいくらで借りているのか考えると恐ろしくなった。
「うん、じゃあいいや」
矢崎くんにとって住む場所が変わるだけで出ていくお金は変わらないのなら、彼の好みにあう家に住めばいい。
私の希望は家の大きさしかなかったわけだしね。
「ここにしようよ」
「いいのか?」
私の同意が得られ、ぱーっと彼の顔が輝く。
それを見て、苦笑いしてしまう。
「だって矢崎くん、気に入ってるみたいだし。
だったらここにしようよ」
「純華!」
「うわっ!」
いきなり矢崎くんに抱きつかれ、短く悲鳴が漏れた。
「ありがとう、純華ー!」
「えっ、ステーイ!
ステイだよ!」
さらにキスまでされそうになって、慌てて止めた。
不動産屋で今日できる手続きをしてしまう。
手続きさえ終わればすぐにでも住めると言われたものの。
「再来週はイベントだから、それまでは避けたいかな」
今抱えているイベントの仕事と並行して引っ越し作業はつらい。
「あー、俺としては早く引っ越したいけど、純華が大変なのは困るもんなー」
意外とあっさりと矢崎くんが承知してくれる。
そんなわけで引っ越しはイベント翌週末に決まった。
不動産屋での用は終わったし、このまま帰るのだろうと思っていたけれど。
「ちょっと寄りたいところがあるんだ」
と、矢崎くんが向かったのは、彼がお世話になっている百貨店だった。
「お待ちしておりました」
今日も担当さんが出てきて、別室へと案内してくれる。
「なんか、買うの?」
彼が外商さんに頼んでよく買い物をしているのは、もう学習していた。
今日もそうなのかな。
「今日は純華の化粧品、買おうと思って」
「え?」
「純華、昨日、化粧品買おうとしてただろ?
でも、もしかしたら買ってもやり方がわからないんじゃないかなー、って。
だから買うついでに、教えてもらえばいいよなって思ったんだけど」
照れくさそうに頬を掻く彼の顔を、まじまじと見ていた。
なんで私すら想定していなかった未来が、彼には見えているんだろう。
言われてみれば彼の言うとおり、買ったものの持て余していた可能性が高い。
いや、売り場に行った時点でどれを買っていいのかわからなくて、途方に暮れていた可能性すらある。
「……余計なお世話、だったか?」
少し自信なさげに、矢崎くんが上目遣いで私をうかがう。
その瞬間。
――心臓に、ずきゅんと矢が刺さった。
「えっ、いや、……ありがとう」
なんだか心臓が飛び出そうで口を押さえる。
それくらい私の心臓は激しく鼓動していた。
……え、あんなに可愛いの、反則なんですケド。
なんというかいつも自信満々な彼とのギャップ萌え?
少しだけれど、可愛いとやたらキスしたがる彼の気持ちがわかった。
「よかった」
今度はあきらかにほっとした顔で笑う。
それに心臓がぎゅん!と締まった。
もう、さらにそんな可愛い顔見せるの、やめてほしい。
私の心臓が持たないから。
「純華?」
私の様子がおかしいと気づいたのか、怪訝そうに矢崎くんが私の顔をのぞき込む。
「えっ、あっ、なんでもない、よ」
慌てて取り繕ったけれど、今、顔をあまり見られたくない。
絶対、不審者丸出しのヤバい顔をしているもん。
「お待たせしましたー」
コーヒーを飲みながらどうにか気持ちを落ち着けていたら、美容部員と思われる女性が入ってきた。
「基本的なメイクの仕方でよろしかったでしょうか」
「はい、それでお願いします」
テキパキと道具を広げていく彼女に、緊張した笑顔を向ける。
「では……」
こうして私のメイク教室が始まった。
――一時間後。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
部屋を出ていく美容部員へ、私も頭を下げる。
「ふぉぇー、メイクで全然変わるんだねー」
改めて見た鏡の中、相変わらず私はつり目だったが、怖いというよりも落ち着いた大人の印象になっていた。
「そう。
純華は元が可愛いから、化粧したらもっと可愛くなる」
眼鏡の下で目を細め、矢崎くんが眩しそうに見ていて頬が熱くなっていく。
「……元が可愛いのはないよ」
耐えられなくなって、新しく淹れてくれたコーヒーを飲みながらごにょごにょと呟いた。
「うんにゃ。
純華は元から可愛いよ」
私の額に落ちかかる髪を払い、顔をのぞき込んだ矢崎くんがにっこりと微笑む。
「えっ、あっ」
その笑顔があまりにも眩しすぎて、つま先から少しずつ熱が昇ってくる。
それは次第に速くなり、膝を過ぎたあたりから一気に駆け上がってきた。
「ああーっ!」
「えっ、純華?」
反動的に私が立ち上がり、矢崎くんは困惑している。
「あっ、いや、出るときに寝室の電気、切ってきたか気になって」
自分の行動が不審すぎてだらだらと変な汗を掻く。
適当に誤魔化し、慌ててソファーに座り直した。
「人がいないと勝手に切れるようになってるから、大丈夫だが?」
「あ、あ、そう……」
私は矢崎くんにどきどきしてこんなに動揺しているのに、彼は平静で憎らしい。
私ももっと、彼をどきどきさせたいな。
ま、それは今後の課題ってことで。