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第12話

気分転換にコーヒーを淹れようと席を立つ。

休憩コーナーに近づいたら、話し声が聞こえてきた。


「週末、ランドに行ってきたの。

これ、お土産」


「えっ、ありがとう!

でも子供、具合悪いんじゃなかったの?」


話しているのは加古川さんと同僚女性みたいだ。

なんとなく、私は聞いてはいけない会話な気がして、隠れた。


「あー。

木曜の夜にちょっと熱出てさ。

金曜には下がってたんだけど、大事取って休ませたんだ。

ホテルの予約してたしさー」


「それは仕方ないかー」


彼女たちは楽しそうに笑っていて、そっとその場をあとにした。

子供が夜に熱を出したのなら、翌日大事を取って休ませたいのもわかる。

ホテルだって当日のキャンセル料は100%だし、もったいないのもわかる。

でも、モヤってしまうのって、私の心が狭いからなのかな……。


お昼はいつものように社食へ行った。

隅っこで、チキン南蛮セットをもそもそと食べる。


「すーみか」


声をかけられて顔を上げると、矢崎くんが目の前に座るところだった。


「出遅れたからローストビーフ丼売り切れててさー。

残念」


そういう彼のトレーの上にはカツカレーがのっている。


「あれは人気だから仕方ないよ」


一日限定十食のローストビーフ丼は大人気で、いつも争奪戦だ。

数を増やすように要望はいくつも出ているらしいが、なにせすぐにはご飯にお箸が届かないほどたっぷりお肉がのせられているのに五百円という激安なため、なかなか難しいらしい。

ちなみに私が食べているチキン南蛮セットは四百円だ。

我が社の社食は安い・美味しい・カフェみたいにお洒落なので、人気が高い。


「てか純華、なんか元気ない?」


「あー……」


長く発して少しのあいだ宙を見たあと、お皿の上のプチトマトに視線を落とす。


「……なんか私、心が狭いのかなって」


自嘲して箸でプチトマトを摘まみ、ぽいっと口に放り込んだ。


「純華の心が狭いんなら、俺なんて針の先どころかないに等しいが?」


カツの一切れを器用にスプーンで半分に切り、それごとカレーを大きな口を開けて矢崎くんが食べる。


「いや、矢崎くんは私なんかよりもずっと広いよ」


「俺が寛大なのは純華にだけだ。

他のヤツには優しくないぞ?」


そう……なのか?

私の目には分け隔てなく優しく見えるけれど。


「それで、どうした?

そんなことで悩むなんて」


カレーを食べながらごく普通に彼が聞いてくる。


「……私は加古川さんのフォローで土曜日も出勤して仕事してたのに、加古川さんは大事取って子供を保育園休ませるまでして土日にランド行ってて、なんかなーって」


こんなの聞いて、矢崎くんは私の性格が悪いと思わないだろうか。

それが、気にかかる。

彼もなにも言わないし。


「あ、でも、前の日の夜に熱が出たんなら、次の日は休ませたいのはわかるのよ?

それが当たり前だと思うし。

ランドだってホテル予約してるなら、キャンセル料もったいないしね」


慌てて取り繕うように笑い、お味噌汁を口に運ぶ。


「まあ、確かにそうだよな」


さらりと言われ、やっぱり自分の心が狭小なんだなと落ち込んだ。

……しかし。


「でもそれって、おかしくないか?」


「え?」


チキン南蛮を箸で掴んだまま、顔を上げる。

そこにはレンズの向こうから真面目な目で私を見ている矢崎くんの顔があった。


「その日だけ特別なら仕方ないかもしれない。

でも、同じような状況が何度あった?

しかも、頻繁に。

そういうのが積み重なった不満なんじゃないか」


「……そう……だね」


私の気持ちを上手く言語化してくれたうえに、理解してくれているみたいですっきりした。


「育児中の社員がいる部署から話集めてるけどさ。

やっぱそういう、やりどころのない不満が大なり小なりあるみたいなんだ。

子育て支援も大事だけど、それを支える人間のフォローがおろそかになってたら、本末転倒だなって気づいた」


なんでもないように話しながら矢崎くんはカレーを食べている。


「凄いね、矢崎くんは」


私は自分の仕事のキャパオーバーが解消できればそれでいいとしか考えていなかった。

でも矢崎くんは私の問題からそれだけじゃなく、全体を見て社員全部によくなるように考えている。

こんな彼はきっと、よい経営者になるだろう。


「矢崎くんが社長になったら、すっごく働きやすい会社になりそうだね」


「え、俺、褒められてる?」


うんうんと力一杯頷いた。


「やった、純華に褒められた」


ふにゃんと締まらない顔で嬉しそうに彼が笑う。

それが、私も嬉しかった。

矢崎くんが早く、この会社の経営者になればいいと思う。

でも、そうなれば確実に私は彼の足を引っ張る存在になる。

だったら、ずっと後を継がないでほしい。

相反する、ふたつの心。

なにが彼にとって幸せなのか、わかっているのに。


「今日、終わったら焼き肉行かない?」


時間に余裕があるのか、いったん食器を下げたあと、今度はコーヒーをふたつ持って矢崎くんは私の前に座った。

さらにひとつを私に渡してくれる。


「ありがとう。

でも外食続きすぎじゃない?」


彼と結婚した金曜日から今まで、夕食はずっと外で食べていた。

さすがにこれだけ続くと、そろそろマズいんじゃって気になってくる。


「そうか?

俺、いつもこんな感じだし」


そうか、忘れていたわけではないが、矢崎くんはお給料以外にかなり稼いでいる人なのだ。

それでも。


「今後も毎日外食はいろいろ心配だよ。

あっ、お金がってわけじゃなくて、健康面が」


彼がなにか言いそうな気配を感じ取って、慌てて付け加える。


「純華が俺の健康を心配してくれた」


眼鏡の陰に笑いじわを覗かせ、くしゃっと彼が幸せそうに笑う。

なんかいちいち、なんでもないことに喜ぶ矢崎くんが凄く可愛い……とか言ったら、怒られちゃうかな。


「そーだなー、純華より先に死ぬわけにはいかないし、長生きしないといけないもんな」


それになんと答えていいのかわからなかった。

そこまで心配しなくても、私が彼と一緒にいるのはきっと短い期間だ。

もしかしたら一年どころかここ数ヶ月のあいだの話かもしれない。

でも彼はそんな私の事情を、知らないのだ。


「朝、矢崎くんに作ってもらったし、夜は私が作るよ」


「純華が!?」


一気にぱーっと、本当にお日様みたいに彼の顔が輝く。

しかしすぐに、深刻な顔に変わった。


「でも、純華は仕事が忙しいだろ?

だったら俺が作るよ」


そうやって気遣ってくれるのは嬉しいが。


「忙しいのは矢崎くんも一緒でしょ」


今、彼は大手生活雑貨店と取り引き交渉を進めていた。

これが決まれば会社としても今後の大きな売り上げになるし、彼の未来にも大きくプラスに働く。

それでいつもよりも忙しいのは知っていた。


「でも、純華よりは忙しくないし」


「うっ」


今現在、矢崎くんよりも私のほうがかなり労働時間が多いので、これにはなにも返せない。


「とりあえず、今日は俺のタイピン取りに行くし、外食でいいだろ?

明日からはまた考える」


「そ、そうだね。

なるべく早く終わらせるように頑張るよ」


反対できる理由がないので、承知した。

それに焼き肉は魅力的だし。


午後からは会議だった。


「前回出てきた、会場内が歩きにくいのではという問題ですが……」


パソコンを操作し、新しく引き直した会場設計図をスクリーンに表示する。


「確かにスロープが端の一カ所にしかなく、ベビーカーや車椅子の方には不便かと位置を見直し、増やしました。

さらに設計担当と相談し、若干ではありますが通路もできる限り広くしました。

これで幾分かは改善したかと思うんですが……」


ちらりと加古川さんに視線を向ける。


「そうですね、まあいいんじゃないですか」


自分は指摘だけしてなにも案を出してこなかったのに、なんで上から目線なのかわからないが、納得してくれたみたいなのでよしとしよう。

それに今日は、焼き肉なのだ。

それで全部、許せる。


今日は残業一時間くらいで終わった。

珍しく保育園から電話がかかってこなかったのと、土曜に矢崎くんに手伝ってもらって少し進めておいたおかげだ。

いつもこうだったらいいが、子供の体調や怪我ばかりはどうにもならない。

というかなんで、私が人様の子供の体調なんかに振り回されなければいけないのだろう?

謎だ。


終わったと連絡を入れたらちょうど矢崎くんも終わったところだったみたいで、ロビーで落ちあう。


「今日は早かったな」


「いつもこうだといいのにねー」


一緒に会社を出て、地下鉄で二駅先にある百貨店に向かう。

そこでタイピンを受け取った。


「またのご依頼をお待ちしております」


帰っていく私たちに丁寧に店員が頭を下げる。

矢崎くんの担当とか言っていたし、なんか買い物の仕方が私たちとは違ってびっくりしちゃう。


矢崎くんの宣言どおり、焼き肉を食べて帰る。

でも、連れてきてくれたお店が高級店で、またびっくりしたが。


「これで明日から、純華とお揃いだな」


帰ってからはタイピンを見て、矢崎くんはにこにこしている。


「そうだね、お揃いだね」


私のネックレスと彼のタイピン、どちらもアクアマリンがついている。

会社では結婚は秘密だから結婚指環は着けられない、私たちの密かなペアアクセサリー。

それが、とても嬉しかった。

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