「おはよう、純華」
私にキスしてくる矢崎くんからは、お味噌汁のいい匂いがする。
……のはいい。
「目覚まし鳴った!?」
次の瞬間、朝の甘い時間なんてぶち壊して飛び起きた。
「鳴ったよ、キッチンで」
なんでそんなところでって、矢崎くんが私の携帯を持ち出したからに他ならない。
「私が朝食作らなきゃいけないのに……ふがっ!」
彼からお味噌汁の匂いがするということは、もうすでに彼が作っているってことだ。
ふがいない自分に落ち込んでいたら、鼻を摘ままれて変な声が出た。
「そういう、家事は女がやらなきゃっていうのはいらない。
俺はなんだってするよ?
家事も、子育ても。
子供を産むのは申し訳ないけど、純華にやってもらわないといけないけど」
「でも……」
そんなんで、彼の奥さんだといえるんだろうか。
それにやってもらうのは申し訳ないわけで。
「でも、じゃない。
純華だって働いてるんだ、どっちかの負担になったらおかしいだろ。
それにうちは家政婦さんに入ってもらってるから、やる家事は少ないし」
有無を言わせないようにじっと、レンズ越しに矢崎くんが私を見つめる。
「……そう、だね」
確かにどちらかが一方的に家事を負担するのは間違っている。
それでも。
「でも、私だって矢崎くんのお世話したいんだもん……」
うるうると目を潤ませて彼を上目遣いで見上げる。
しばらく見つめあったあと、矢崎くんはその場にへなへなと力なく座り込んだ。
「……可愛すぎ。
反則」
反則と言われても、私はなにもしていない。
「朝から押し倒したくなっちゃうんですけど」
「え?」
彼の手が私の肩を押し、簡単にころんとベッドに転がっていた。
「純華が悪いんだからな」
「えっ?
は?」
戸惑っている私を無視し、眼鏡を外して矢崎くんが覆い被さってくる。
拒むより先に、唇が重なった。
これで終わりだと思ったのに、彼は何度も私の唇を啄んできた。
連続して短い口付けが続き、息をつくタイミングがわからない。
それでも、とうとう限界が来て……。
「ぷはっ。
……んんっ!」
唇が離れた隙に息をした瞬間。
その間を逃さずにぬるりと彼が入ってきた。
驚いて思わず、目を見開いてしまう。
そこでは難しそうに眉を寄せている矢崎くんが見えた。
彼に私を探り当てられ、びりびりと弱い電流のようなものが身体に走る。
それでまた、目を閉じていた。
彼が唇の角度を変えるたび、どちらのものかわからない甘い吐息が漏れる。
……キスって、こんな甘美なものだったんだ。
ぼんやりとした頭のどこかで、そんなことを考えていた。
「……」
唇が離れ、ふたり無言で見つめあう。
「めっちゃ蕩けた顔してて、可愛い」
ちゅっと軽く、彼の唇が重なる。
「他の男にもその顔を見せてたかと思うと、ムカつくけど」
苦々しげに顔を顰める彼を、まだ夢の中にでもいるかのように見ていた。
「あー、うん。
キスは矢崎くんとしかしたことないから、他に見てる人はいないよ……」
「マジか」
再び眼鏡をかけた矢崎くんの目が、そのレンズの高さに迫らんばかりに見開かれる。
「俺が、純華のファーストキスの相手?」
「そーなるね」
なにをそんなに驚いているんだろうって、二十八にもなってファーストキスすらまだとか驚くか。
「俺が純華のハジメテの男!」
「えっ、うわっ!」
せっかく起き上がったのに勢いよく抱きつかれ、またベッドに倒れた。
「もー、こんなに嬉しいこと、あっていいのか?」
嬉しくって堪らないのか、矢崎くんはにこにこしっぱなしだ。
「純華、一生大事にする」
むちゅーっと盛大に口付けをし、ようやく彼は離れてくれた。
「顔洗ってこい?
もう朝食、できてるから」
「あー、うん」
彼が寝室を出ていきひとりになった途端、爆発でもしたかのように一気に顔が熱くなった。
いや、ばふんて音がした気がするから、本当に爆発したのかもしれない。
「……そっか。
私のファーストキスの相手は、矢崎くんなんだ……」
もう何度か唇は重ねたが、いろいろいっぱいいっぱいで意識していなかった。
改めて認識すると、嬉しさと恥ずかしさで満たされる。
「うーっ、あーっ」
このむず痒い気持ちに耐えられず、枕で顔を押さえてベッドの上をごろごろ転がっていたけれど。
「純華ー、早くしないと遅刻するぞー」
矢崎くんから声をかけられ、慌てて起き上がった。
一緒に朝食を取り、出社の準備を済ませる。
「うん、やっぱり似合ってる」
私の胸もとに下がるアクアマリンのネックレスを、眼鏡の奥で眩しそうに目を細めて矢崎くんは見た。
「俺の奥さんって印だから、絶対に外すなよ?」
アクアマリンを手に取り、身をかがめた彼がそこに口付けを落とす。
「わかってるよ」
「俺のは今日、帰りに受け取ってくる」
「一緒に行けるように、できるだけ頑張って仕事終わらせるよ」
「無理はするなよ」
ちゅっと今度は、つむじに口付けが落とされた。
お揃いとはいかないが、似たようなデザインのネクタイピンを探してくれるよう、矢崎くんの付き合いのある百貨店に依頼してある。
そんなことができるなんて、住む世界の違う人なんだなーって思う。
一緒に出勤しながらふと思う。
……会社では結婚したのは秘密と言いながら、これではバレバレなのでは?
「ねえ」
「なんだ?」
声をかけられ、矢崎くんが私を見下ろす。
「一緒に出勤したら、結婚はあれとして付き合ってるってバレない?」
「……はぁーっ」
足を止めた彼が呆れたようにため息をつき、さすがにムッとした。
「今まで毎日一緒に通勤してたのに、いまさらだろ?」
「……ソウデシタ」
衝撃……ではないが、当たり前の事実を告げられ、身を小さく縮ませる。
「会社で変な意識、しないでいいからな。
俺が純華にかまうのはいつものことだし、純華が俺と気さくに話すのもいつものことだろ?
まわりは仲のいい同期と思っているんだから、特に問題ない」
「う、うん」
矢崎くんは平然としているけれど、それでも意識しちゃうよー。