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第11話

「おはよう、純華」


私にキスしてくる矢崎くんからは、お味噌汁のいい匂いがする。

……のはいい。


「目覚まし鳴った!?」


次の瞬間、朝の甘い時間なんてぶち壊して飛び起きた。


「鳴ったよ、キッチンで」


なんでそんなところでって、矢崎くんが私の携帯を持ち出したからに他ならない。


「私が朝食作らなきゃいけないのに……ふがっ!」


彼からお味噌汁の匂いがするということは、もうすでに彼が作っているってことだ。

ふがいない自分に落ち込んでいたら、鼻を摘ままれて変な声が出た。


「そういう、家事は女がやらなきゃっていうのはいらない。

俺はなんだってするよ?

家事も、子育ても。

子供を産むのは申し訳ないけど、純華にやってもらわないといけないけど」


「でも……」


そんなんで、彼の奥さんだといえるんだろうか。

それにやってもらうのは申し訳ないわけで。


「でも、じゃない。

純華だって働いてるんだ、どっちかの負担になったらおかしいだろ。

それにうちは家政婦さんに入ってもらってるから、やる家事は少ないし」


有無を言わせないようにじっと、レンズ越しに矢崎くんが私を見つめる。


「……そう、だね」


確かにどちらかが一方的に家事を負担するのは間違っている。

それでも。


「でも、私だって矢崎くんのお世話したいんだもん……」


うるうると目を潤ませて彼を上目遣いで見上げる。

しばらく見つめあったあと、矢崎くんはその場にへなへなと力なく座り込んだ。


「……可愛すぎ。

反則」


反則と言われても、私はなにもしていない。


「朝から押し倒したくなっちゃうんですけど」


「え?」


彼の手が私の肩を押し、簡単にころんとベッドに転がっていた。


「純華が悪いんだからな」


「えっ?

は?」


戸惑っている私を無視し、眼鏡を外して矢崎くんが覆い被さってくる。

拒むより先に、唇が重なった。

これで終わりだと思ったのに、彼は何度も私の唇を啄んできた。

連続して短い口付けが続き、息をつくタイミングがわからない。

それでも、とうとう限界が来て……。


「ぷはっ。

……んんっ!」


唇が離れた隙に息をした瞬間。

その間を逃さずにぬるりと彼が入ってきた。

驚いて思わず、目を見開いてしまう。

そこでは難しそうに眉を寄せている矢崎くんが見えた。

彼に私を探り当てられ、びりびりと弱い電流のようなものが身体に走る。

それでまた、目を閉じていた。

彼が唇の角度を変えるたび、どちらのものかわからない甘い吐息が漏れる。


……キスって、こんな甘美なものだったんだ。


ぼんやりとした頭のどこかで、そんなことを考えていた。


「……」


唇が離れ、ふたり無言で見つめあう。


「めっちゃ蕩けた顔してて、可愛い」


ちゅっと軽く、彼の唇が重なる。


「他の男にもその顔を見せてたかと思うと、ムカつくけど」


苦々しげに顔を顰める彼を、まだ夢の中にでもいるかのように見ていた。


「あー、うん。

キスは矢崎くんとしかしたことないから、他に見てる人はいないよ……」


「マジか」


再び眼鏡をかけた矢崎くんの目が、そのレンズの高さに迫らんばかりに見開かれる。


「俺が、純華のファーストキスの相手?」


「そーなるね」


なにをそんなに驚いているんだろうって、二十八にもなってファーストキスすらまだとか驚くか。


「俺が純華のハジメテの男!」


「えっ、うわっ!」


せっかく起き上がったのに勢いよく抱きつかれ、またベッドに倒れた。


「もー、こんなに嬉しいこと、あっていいのか?」


嬉しくって堪らないのか、矢崎くんはにこにこしっぱなしだ。


「純華、一生大事にする」


むちゅーっと盛大に口付けをし、ようやく彼は離れてくれた。


「顔洗ってこい?

もう朝食、できてるから」


「あー、うん」


彼が寝室を出ていきひとりになった途端、爆発でもしたかのように一気に顔が熱くなった。

いや、ばふんて音がした気がするから、本当に爆発したのかもしれない。


「……そっか。

私のファーストキスの相手は、矢崎くんなんだ……」


もう何度か唇は重ねたが、いろいろいっぱいいっぱいで意識していなかった。

改めて認識すると、嬉しさと恥ずかしさで満たされる。


「うーっ、あーっ」


このむず痒い気持ちに耐えられず、枕で顔を押さえてベッドの上をごろごろ転がっていたけれど。


「純華ー、早くしないと遅刻するぞー」


矢崎くんから声をかけられ、慌てて起き上がった。


一緒に朝食を取り、出社の準備を済ませる。


「うん、やっぱり似合ってる」


私の胸もとに下がるアクアマリンのネックレスを、眼鏡の奥で眩しそうに目を細めて矢崎くんは見た。


「俺の奥さんって印だから、絶対に外すなよ?」


アクアマリンを手に取り、身をかがめた彼がそこに口付けを落とす。


「わかってるよ」


「俺のは今日、帰りに受け取ってくる」


「一緒に行けるように、できるだけ頑張って仕事終わらせるよ」


「無理はするなよ」


ちゅっと今度は、つむじに口付けが落とされた。

お揃いとはいかないが、似たようなデザインのネクタイピンを探してくれるよう、矢崎くんの付き合いのある百貨店に依頼してある。

そんなことができるなんて、住む世界の違う人なんだなーって思う。


一緒に出勤しながらふと思う。

……会社では結婚したのは秘密と言いながら、これではバレバレなのでは?


「ねえ」


「なんだ?」


声をかけられ、矢崎くんが私を見下ろす。


「一緒に出勤したら、結婚はあれとして付き合ってるってバレない?」


「……はぁーっ」


足を止めた彼が呆れたようにため息をつき、さすがにムッとした。


「今まで毎日一緒に通勤してたのに、いまさらだろ?」


「……ソウデシタ」


衝撃……ではないが、当たり前の事実を告げられ、身を小さく縮ませる。


「会社で変な意識、しないでいいからな。

俺が純華にかまうのはいつものことだし、純華が俺と気さくに話すのもいつものことだろ?

まわりは仲のいい同期と思っているんだから、特に問題ない」


「う、うん」


矢崎くんは平然としているけれど、それでも意識しちゃうよー。

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